大蔵経寺(甲斐霊場第3番)
光福寺から大蔵経寺までは2〜3キロ。その前に、国道に出たとたんに発見したドラッグストアでかゆみ止めを買い、蚊に刺されたところに塗りまくりました〜。いわゆる薮蚊というのでございましょうか、思いっきり真っ赤に晴れ上がり、かゆい、かゆい。これって、修行が足りないってことですか(笑)
このお寺は徳川家とのゆかりが深く、天正の頃には家康の祈願所となっていたそうです。山門の扉とその脇にある大きな灯籠には徳川の紋がはいっており、所蔵品にも徳川家にかかわるものも多いそうです。ですが、中途半端な季節の平日で、あっちこっち鍵がかかっていました。
背後には緑の山がそそり立ち、塀で囲われたお寺自体は大きいものではありませんが広々とした雰囲気です。静まりかえっているので、誰もいないのかなと心配しながら御朱印をもらおうとピンポンしてみました。よかった。お寺の方がいらっしゃいました。
御朱印を書く間に、よろしかったら庭を……とご案内いただいて、上がりこんで中庭を拝見すると、これが見事に手入れされた美しい庭でした。池と白砂と岩が調和して、京都の寺院のような。ピンポンしなければ、これを見損なうところでした。これは一見の価値がありますよ。
石和温泉郷七福神の寿老人も
光福寺(甲斐霊場第2番)
光福寺があるのは善光寺から東へ2.5キロほど。ナビには登録されていなくて、この辺かなぁと曲がったところが大当たりで、まっすくお寺に到着しました。階段を上がった観音堂のあたりでなにやら読経の声。巡礼なんでしょうか、おばさん6人、おじさん1人のグループが般若心経を唱えておいででした。
下の観音堂 上の観音堂
甲斐源氏の祖である新羅三郎義光)が、「後三年の役」の戦死した人々を弔うために開山した真言宗の寺院でだったとか。その寺は、山崩れで寺は失われ、1547(天文16)年に武田信玄が、浄土宗岩泉山光福寺として再建したそうです。
富士山が真正面に見えます
お経の声に導かれて?階段を上り、観音堂に到着。実はこれを本堂と勘違いしました(^_^;) お参りしてから右横をみると、観音堂へ上がるという急な石の階段があったので、とりあえず行ってみるかと昇ってみると……、ちょっと広場になっていて、観音堂まで50メートルと書かれた表示がありました。
50メートルならと、歩き出したのですが、これが険しい! 一応、石が階段状になっているのですが、天然石で大きさもまちまち。手で足を引っ張り上げなくちゃ登れないようなところもあって(足が短いだけ?)えらいこっちゃ!
険しい山道のような参道
終点の観音堂は、岩をくりぬいた洞窟のようなところに半分埋め込まれるようにお堂が建ち、足の弱い人には危険かもっていうぐらいのところでした。これは上の観音堂と呼ばれ、最初に参拝したところは下の観音堂ということらしいのです。参拝して下り始めたのですが、こういう道を下るのは登るより恐かったです。その上、むっちゃくっちゃ蚊に刺されて(>_<)
で、降りてきたら、なんと本堂は駐車場のすぐ脇だっていうことを発見。住職と奥様が庭木の手入れをなさっていました。そこで御朱印をいただいたのですが、すごくやさしい物腰の上品な奥様で感激いたしました。
光福寺はたびたび山崩れや火災などにあい、現在の本堂は1965(昭和40)年に、二つの観音堂は1997(平成9)年に建てられたそうです。
法多山尊永寺「万灯祭」
「テキヤ物語」のロケーションとして法多山尊永寺(静岡県袋井市)がでてきます。これからですけど(^_^;) 地元では有名なお寺のようですが、聞いたことがなかったので、一度、たずねてみたいなと思っていたのです。今日は、その法多山の「万灯祭」だというので、ちょっと足を延ばしてみました。って、何も5・10日でしかも雨の日にいかなくてもねぇ(笑) とはいえ、片道240キロ余り、東名は思いがけずすいていました。
法多山でも、7月10日は一年でもっともご利益のある日。1日で4万6千日分のご利益の日です。昨日と合わせれば、250年分ぐらいOKですね(^_^;) この日にご本尊の厄除観世音に灯りを献ずれば、そのご利益はさらに倍増するといわれ、境内には献灯がたくさん並びます。それで古くから「万灯祭」と呼ばれているそうです。
あいにくの雨で、しかも平日の昼間ですから、善男善女の姿はまばらでしたが、夕方6時を過ぎて、灯籠にあかりが入れられるころになれば、きっと多くの人々が参詣に訪れたのでしょう。残念ながら夜まではいられなくて。
万灯祭にあわせて「厄除ほおずき市」も開かれていました。ご本尊の前で厄除祈願をされた鉢植えのほおずきだそうですが、境内のちょっと下に仮説店舗が2軒でていました。ほうずきは、「四万六千日」の縁起物として一般的なようですね。
いや、しかし、広い! というか、参道の入り口にある「仁王門」をくぐってから、本堂の見えるところまで1キロぐらいあるのではないかしら? 道の両側には何もなく、緑深い土の道ですから、遠くても苦にはならず、むしろ気持ちのいい散歩道という感じですけど。
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そして、いよいよ本堂に昇る。そう、昇るんですよ、階段を。試しに数えてみたら、本堂の下のほおずき屋さんの出ている踊り場のようなところまでで、122段ありました(-_-;) それからちょっと私は横に外れたのですが、まっすぐ昇れば、あと20段ぐらいはありそう。
帰りに写真を撮っていたら(本当は下山道は別なルートになります)、昇ってくるお参りのお年寄りがが「うわぁ〜」とか「ひぇ〜」とか言っていて、「もう少しですか?」と聞かれたので、「いえ、まだ倍以上あります」と答えたら、絶句してました。その方も初めてのお参りだったんですね。
下山ルートに一軒だけ、お団子家さんがあり、名物らしいです。厄除け団子、自動チケット販売機があり、チケットを買ってお皿を受け取るようです。なんだかな(笑) 私は甘いものはどちらかといえば苦手なので、素通りしちゃいましたが。
下山道には不動明王像も
「仁王門」は歴史を感じさせる渋い門でしたが(重要文化財)、参道の中間ぐらいにある「黒門」も立派。この奥にある「本坊」もどっしりとした重厚な建築でした。
仁王門 黒門
明日、筋肉痛にならねばいいのですが(-_-;)
浅草寺「ほおずき市」
浅草寺のほおずき市に行ってきました。平日の昼間にもかかわらず、けっこうな人出でした。週末の三社などに比べれば、「お参りできない!」っていうほどの人ではなかったので、ちょっと並んで正面からお参りしてきました。
この日は 「四万六千日」と呼ばれ、この日にお参りすると4万6千日分お参りしたのと同じ御利益を得られるという観音詣での縁日です。えーと、126年? よしっ、一生分はすませたぞ(笑) みんな欲張りだから、この日の参拝は江戸時代からずいぶん賑わっていたらしいです。
この縁日には浅草寺境内にほおずきの市がたちます。四万六千日のお参りのおみやげにほおずきが売られたことから、いつしか「ほおずき市」といわれるようになったようです。毎年7月9、10日の両日、境内一帯にたくさんのほおずき売りの出店が並び、たこ焼きやお好み焼きの店も出で、多くの人で賑わっています。
ほうずきの鉢と風鈴をセットにして釣り下げたよしずばりの店は、いかにも東京下町の夏の風物詩という感じ。
7月9日か10日に参拝すると、4万6千日お参りをしたのと同じご利益があるとされ、江戸時代より、この日の参拝は盛んだったそうです。赤い実が雷よけのおまじないになるそうです。
ほおずきの笛をつくったことがありますか? 赤い実の皮を破らないようにして中の種を出し風船のようにして、鳴らす笛です。幼い頃、向島のおじさんに作ってもらって、うまく鳴らせなかったなぁなんてことをふと思い出しました。
明日もやってます。「縁日ガイド」にアクセスを掲載しておきました。行ってみてはいかがでしょう?
六義園散歩
六義園は都立庭園ですが、五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保の下屋敷だったところで、それは見事な日本庭園であります。広い敷地の中に池あり、川あり、峠あり。茶屋あり、鯉あり、亀もあり。吉保が、和歌の世界を庭園で表現しようと設計、開園させたものだそうで、平坦だった土地にに丘や池を掘り、見事に具現したということですが、松の枝ぶりなんかとても美しく、恐るべし、柳沢吉保!
いまは季節的に緑が濃くて、花はアジサイが終わりかけてる……って感じですが、ツツジや枝垂桜なども有名なようですね。整備も行き届いていて、いまでも有数の日本庭園といえるのではないでしょうか。完成当時は、小石川後楽園と並び二大庭園といわれたそうです。
その後、柳沢家の別荘として使われていたのを、明治になって岩崎弥太郎が買い、1938年に東京都(そのときは東京市)に寄贈されたそうです。岩崎弥太郎もあちこちの公園を買いまくった?ようで、昔の金持ちは半端じゃないなぁ。
池にはでっかい鯉がいっぱい泳いでいて、将軍は? という感じです(笑)。それより、亀が佃煮のようにいたのでびっくり。これ外来種? などと話していましたが、下調べなしなので、「はぁ〜」とか「ほぉ〜」とか、感心して歩いていただけでした。
六義園は「りくぎえん」と読みますが、中国の詩の六義(分類法)にならった和歌の分類の六体に由来したものだそうで、漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読むことから、そう読み慣わしているそうです。