甲斐霊場めぐり
「テキヤ物語」で主役を張っている元テキヤのヒデさんご夫妻から、若い頃に重ねた悪行を少しでも清めるために(笑)、霊場めぐりというのか、札所めぐりをしませんかというお誘いを受けました。三途の川を渡るときに、あまり水を濁らすと後から来る人に迷惑だろうとおっしゃいまして。「テキヤ物語」はいわゆるモデル小説っぽい感じですが、書かれていることがすべて事実ってわけじゃありませんので、念のため。
私は別に悪行を重ねたつもりはありませんが(^_^;)、もし、後になっちゃったら汚れ水を渡らなきゃならなくなるし、ここはひとつ、お付き合いしましょうってんで、甲斐百八箇所霊場めぐりを敢行することにしました。簡単にいえば、要するに運転手。煩悩の数と一緒だし、ちょうどよいのではないかと。いっぺんには無理なので、ちょっとずつね。
霊場はどこでもよかったんだけど(^_^;)、都内は移動に混雑が見込まれるところも多いし、今年は風林火山だろうというので、あっさり山梨県に決定! いいかげんなもんです。ついでに山本勘助の墓参りでもしてきますか<いっぱいあるらしい
というわけで、第一番「善光寺」に行ってきました。一般には甲斐善光寺といわれています。武田信玄が長野の善光寺からご本尊を奪ってきて祀り、また奪い返されちゃって、いまは別の阿弥陀如来がご本尊とか。善光寺というのはもともと土着信仰と関係が深いらしく、調べてもいないのでわからないのですが(無責任!)、けっこう全国に善光寺という名前のお寺がたくさんあるようなんですよね。
甲府は、ちょっと高台のほうに行くと、本当に街全体が見下ろせます。そして山を背負い、三方も山。盆地なんだなぁとつくづく感じられます。今日はめちゃめちゃ蒸し暑かったですが、梅雨の晴れ間で、富士山もくっきり見えました。この高みから富士を目前に拝し、集落全体を見下ろすと、武田信玄ならずとも「要塞堅固っ!」って感じがします。
私は別に悪行を重ねたつもりはありませんが(^_^;)、もし、後になっちゃったら汚れ水を渡らなきゃならなくなるし、ここはひとつ、お付き合いしましょうってんで、甲斐百八箇所霊場めぐりを敢行することにしました。簡単にいえば、要するに運転手。煩悩の数と一緒だし、ちょうどよいのではないかと。いっぺんには無理なので、ちょっとずつね。
霊場はどこでもよかったんだけど(^_^;)、都内は移動に混雑が見込まれるところも多いし、今年は風林火山だろうというので、あっさり山梨県に決定! いいかげんなもんです。ついでに山本勘助の墓参りでもしてきますか<いっぱいあるらしい
というわけで、第一番「善光寺」に行ってきました。一般には甲斐善光寺といわれています。武田信玄が長野の善光寺からご本尊を奪ってきて祀り、また奪い返されちゃって、いまは別の阿弥陀如来がご本尊とか。善光寺というのはもともと土着信仰と関係が深いらしく、調べてもいないのでわからないのですが(無責任!)、けっこう全国に善光寺という名前のお寺がたくさんあるようなんですよね。
甲府は、ちょっと高台のほうに行くと、本当に街全体が見下ろせます。そして山を背負い、三方も山。盆地なんだなぁとつくづく感じられます。今日はめちゃめちゃ蒸し暑かったですが、梅雨の晴れ間で、富士山もくっきり見えました。この高みから富士を目前に拝し、集落全体を見下ろすと、武田信玄ならずとも「要塞堅固っ!」って感じがします。
本遠寺(甲斐霊場第104番)
身延町は日蓮宗総本山久遠寺のある町。本遠寺は、名前からも想像できるように、やはり日蓮宗のお寺でした。入母屋作り本堂は1650(慶安3)年に、紀州徳川家と水戸徳川家から寄進されたものだそうで、なかなか立派な建物ですが、傷みがひどくなったとのことで現在は修復中。ご本尊は庫裏に仮住まいのようです。
山門は朱塗りの大きなものですが、だだっ広い境内に工事車両が何台も停まっているという状況では、なんとなくとりとめのない感じがします。門の両側には仁王さまがどっしりと守っているのですが、天気が悪かったこともあり、暗くてお顔までは見えませんでした。
徳川家康の側室だったお万の方が身延山22世日遠上人に帰依し、1609(慶長14)年に伽藍を寄進したときが開山だそうです。お万の方は紀州徳川と水戸徳川に縁のある人ですから、本遠寺は石高も260石という大きな禄をいただいていたそうです。境内にはお万の方が使った井戸も残されています。本堂の裏手には立派なお墓もあるそうですが、いかんせん工事中で……。井戸の隣には町の指定文化財になっているおおきなケヤキがありました。
修行寺なのでしょう、仮本堂の寺務所で対応してくださった若い僧侶が、目の前で丁寧に筆を使って御朱印を書いてくださったのが印象に残ります。案外、見ているところで書いてくださるお寺って少ないんですよね。
山門は朱塗りの大きなものですが、だだっ広い境内に工事車両が何台も停まっているという状況では、なんとなくとりとめのない感じがします。門の両側には仁王さまがどっしりと守っているのですが、天気が悪かったこともあり、暗くてお顔までは見えませんでした。
徳川家康の側室だったお万の方が身延山22世日遠上人に帰依し、1609(慶長14)年に伽藍を寄進したときが開山だそうです。お万の方は紀州徳川と水戸徳川に縁のある人ですから、本遠寺は石高も260石という大きな禄をいただいていたそうです。境内にはお万の方が使った井戸も残されています。本堂の裏手には立派なお墓もあるそうですが、いかんせん工事中で……。井戸の隣には町の指定文化財になっているおおきなケヤキがありました。
修行寺なのでしょう、仮本堂の寺務所で対応してくださった若い僧侶が、目の前で丁寧に筆を使って御朱印を書いてくださったのが印象に残ります。案外、見ているところで書いてくださるお寺って少ないんですよね。
円蔵院(甲斐霊場第105番)
南部山円蔵院は山号の通り、南部町にあります。「南部氏の郷」と書いてありました。南部氏というと岩手県のイメージが強いなぁと思っていたら、やっぱり関係があるんですね。このあたりは鎌倉時代に加賀美遠光の三男光行が南部氏を称して治め、のちの岩手県の南部藩に移ったのだそうです。その後、南部町は穴山氏の領になったそうです。でも、名前は南部町のまま。
円蔵院は、集落のはずれにひっそりとたたずんでいました。穴山氏六代目の信友が1555(天文24)年に建てたもの。お寺の裏手には穴山信友の墓もあります。扉の閉ざされている門は当時のもので、風情がありますが、本堂へ回ると、あらま、コンクリート?
1956(昭和31)年に子どもの火遊びから出火し、焼失してしまったそうです。もとの建物は砦を兼ねていたもので、戦国時代の武者隠しや回転式の壁、床の間の下に抜け穴などもあったとか。焼けてしまったのは残念です。
円蔵院には、山梨県ではここだけというジュンサイがあり、本堂裏の小さな池に群生しています……、といわれても、どれがジュンサイ? 食卓に出てくるものしか見たことがないので(-_-;) 水面にハスのような葉を浮かべ、水中の茎のところに出てくる新芽が、あの、食べられるジュンサイなのだそうです。見えませんよね(笑)