甲斐霊場めぐり
私は別に悪行を重ねたつもりはありませんが(^_^;)、もし、後になっちゃったら汚れ水を渡らなきゃならなくなるし、ここはひとつ、お付き合いしましょうってんで、甲斐百八箇所霊場めぐりを敢行することにしました。簡単にいえば、要するに運転手。煩悩の数と一緒だし、ちょうどよいのではないかと。いっぺんには無理なので、ちょっとずつね。
霊場はどこでもよかったんだけど(^_^;)、都内は移動に混雑が見込まれるところも多いし、今年は風林火山だろうというので、あっさり山梨県に決定! いいかげんなもんです。ついでに山本勘助の墓参りでもしてきますか<いっぱいあるらしい
というわけで、第一番「善光寺」に行ってきました。一般には甲斐善光寺といわれています。武田信玄が長野の善光寺からご本尊を奪ってきて祀り、また奪い返されちゃって、いまは別の阿弥陀如来がご本尊とか。善光寺というのはもともと土着信仰と関係が深いらしく、調べてもいないのでわからないのですが(無責任!)、けっこう全国に善光寺という名前のお寺がたくさんあるようなんですよね。
甲府は、ちょっと高台のほうに行くと、本当に街全体が見下ろせます。そして山を背負い、三方も山。盆地なんだなぁとつくづく感じられます。今日はめちゃめちゃ蒸し暑かったですが、梅雨の晴れ間で、富士山もくっきり見えました。この高みから富士を目前に拝し、集落全体を見下ろすと、武田信玄ならずとも「要塞堅固っ!」って感じがします。
光勝寺(甲斐霊場第95番)
静けさや……という句が似合いそうな、山あいの古いお堂が市瀬山光勝寺でした。長い間、無住だったとのこと、もう少しで朽ちてしまうのではないかといらぬ心配をしていまいそうですが、現在は本堂の横手に立派な庫裏も建ち、十分にお世話をしてもらっているようです。
長い石段を登っていくと広目天と多聞天が目を光らせている山門があり、その奥の深い木立ちの中に本堂はあります。この山門にはわらじがたくさん掛けられていて、それを見るとここがかつて旅人の守護をしていたお寺であったことが偲ばれます。山を越えて旅をする人々が、道中の安全を願って、ここのわらじを奉納したのうでしょう。鎌倉時代には、武田一族が頼朝への奉仕で交代通行の際に、この寺で人馬の足を休ませたといいます。参 勤交代のようなものが、鎌倉時代にもあったんですね。
このお寺は1220(承久2)年、宥教によって高野山金剛頂院の末寺として、真言密教の行の道場として開かれました。いまも高野山真言宗のお寺。ご本尊は千手観音菩薩で、運慶の作といわれますが、ほんとかな? 14世紀初頭には後醍醐天皇の勅願寺となっていたそうです。
お寺のすぐ前には芦川の渓流が音をたてて流れていました。岩場があり、流れはなかなかに強そうですが、水量は少ないため、子どもたちの格好の遊び場のようです。夏休みに入った午後、数人の子どもたちの歓声が聞こえてきます。涼しそうでうらやましい限り。紫陽花の季節にはお寺の背後の山を彩り、新緑の頃には渓谷が山吹色に染まるのだとか。自然が堪能できるお寺の一つです。
薬王寺(甲斐霊場第95番)
薬王寺の山号、河浦山は、芦川にちなんだものといわれますが、このお寺があるのはJR身延線芦川駅の近く。芦川の渓谷とは少し離れて、せせらぎも感じられないあたりになります。お墓所はかんかん照りで、車もサウナになりそう。境内には木立が見えますが、中へはクルマでは入れません。階段のギリギリまで寄せさせていただいて、やっと木陰に半分入って停車しました。
お寺の正面、入口脇に「後陽成院第八之宮良純親王遺跡」の石標があります。良純親王は、後陽成天皇第八の皇子だそうですが、徳川家康に引き取られたことで一応、歴史上に名前の出てくる人みたいです。天皇家には関心がないので、石原家と関係があるのかと思った(笑) この良純さんが、結局は甲斐に流され、1655(明暦元)年から5年間住んでいたのがこのお寺だそうです。芦川を京都の鴨川に見たてて、親王を慰めるためだったといいますが、似てるのかなぁ、鴨川と。
入口から山門へ向かって石燈篭がずらっと並んでいるのが印象的でした。境内には甲斐の七福神のえびす様も祭られていますが、比較的、新しいもののようです。かつては七堂伽藍が建ち並び、多くの人が暮らしていたということですが、いまはひっそりとして、外観だけではあまり特徴のないお寺さんのように感じます。ごめんなさい。