甲斐霊場めぐり
私は別に悪行を重ねたつもりはありませんが(^_^;)、もし、後になっちゃったら汚れ水を渡らなきゃならなくなるし、ここはひとつ、お付き合いしましょうってんで、甲斐百八箇所霊場めぐりを敢行することにしました。簡単にいえば、要するに運転手。煩悩の数と一緒だし、ちょうどよいのではないかと。いっぺんには無理なので、ちょっとずつね。
霊場はどこでもよかったんだけど(^_^;)、都内は移動に混雑が見込まれるところも多いし、今年は風林火山だろうというので、あっさり山梨県に決定! いいかげんなもんです。ついでに山本勘助の墓参りでもしてきますか<いっぱいあるらしい
というわけで、第一番「善光寺」に行ってきました。一般には甲斐善光寺といわれています。武田信玄が長野の善光寺からご本尊を奪ってきて祀り、また奪い返されちゃって、いまは別の阿弥陀如来がご本尊とか。善光寺というのはもともと土着信仰と関係が深いらしく、調べてもいないのでわからないのですが(無責任!)、けっこう全国に善光寺という名前のお寺がたくさんあるようなんですよね。
甲府は、ちょっと高台のほうに行くと、本当に街全体が見下ろせます。そして山を背負い、三方も山。盆地なんだなぁとつくづく感じられます。今日はめちゃめちゃ蒸し暑かったですが、梅雨の晴れ間で、富士山もくっきり見えました。この高みから富士を目前に拝し、集落全体を見下ろすと、武田信玄ならずとも「要塞堅固っ!」って感じがします。
瑜伽寺(甲斐霊場第43番)
本堂の作りも変わっている……、というより、あれこれ付属品がなくてシンプルに昔のお寺そのものという感じなのかもしれません。ちょっと神楽殿かなにかを下から見上げているような。
この寺には封印された箱が伝えられていたそうです。開けてみると、中には渡金を施された泥の固まりが……。奈良時代に多く作られた、いわゆる「どろ仏」なのだそうです。すっかり崩れていて復元は不可能なのだそうですが、山梨県内では最古の仏像とのこと。奈良時代の塑像の分布はこれまで奈良付近だけと言われていましたが、1992(平成4)年の発掘調査で瑜伽寺境内西側のからも奈良時代の遺跡が見つかったことから、この塑像がここで作られたことが想像でき、学術的には非常に貴重なものとなっているとのこと。やはり甲斐は、奈良時代から仏教文化の水準が高かったということの証。断片のうち24個は東京国立博物館に納められ、残りは瑜伽寺に保管されているそうです。復元できれば、像高は85センチ前後になるといわれます。
庫裏の庭では小坊主かせっせと落ち葉をはいていました?
聖応寺(甲斐霊場第44番)
入り口の小さな木橋の下には清流がありました。楓橋と呼ばれるこの反り橋を渡って三門まで、長い参道が続いています。両側に杉の木立が続くいて、荘厳な雰囲気が漂っています。参道の先に現われたのは古めかしい三門。堂々として、威厳がありました。その奥にあるのが本堂かと思ったら、仏殿なのだそうです。
1395(応永2)年、武田家に従う豪族だった黒坂信光によって寄進されたという聖応寺は、広済寺とともに向嶽寺派の二大寺として栄えたそうです。20もの子院があり、多くの僧たちが修行していたといいますが、1779(安永8)年にほとんどの建物を大火で焼失したのだそうです。
600年の歴史は土の中に埋もれてしまっていますが、石垣をはじめ、お庭の手入れがよく、まるで庭園のようです。仏殿の横には本堂を兼ねた庫裏があり、この建物はなかなか趣があります。が、お留守みたい。
仏殿の裏で植木仕事をしていらっしゃる方がいたので、「お寺さんはお留守でしょうか?」と伺ったら、なんとこの方が住職でした。広くて美しいお庭を手入れするのは大変なことのようで、長靴に軍手で汗を流していらっしゃったのでした。すみません、お邪魔して。「御朱印を……」というと、仕事の手を休めて書いてくださいました。
そして、「こっちへ来てごらんなさい」といって案内してくださった場所は、甲府の街を一望できるまるで展望台のようなところ。ここから眺める夜景は素晴らしいものだそうです。「まあ、夜になってお墓参りする人もいないので、あまり見た人はいないんですけどね」と。確かに。山が真っ赤に染まる朝焼けも大変美しく、自慢の光景だそうです。住んでいる方にしか味わえない感動かもしれませんね。
夜中のお墓参りはちょっとナンですが、早起きの朝焼けは……、いやいや早起きがゴキブリの次に苦手な私にはちょっと無理かなぁ。