甲斐霊場めぐり
私は別に悪行を重ねたつもりはありませんが(^_^;)、もし、後になっちゃったら汚れ水を渡らなきゃならなくなるし、ここはひとつ、お付き合いしましょうってんで、甲斐百八箇所霊場めぐりを敢行することにしました。簡単にいえば、要するに運転手。煩悩の数と一緒だし、ちょうどよいのではないかと。いっぺんには無理なので、ちょっとずつね。
霊場はどこでもよかったんだけど(^_^;)、都内は移動に混雑が見込まれるところも多いし、今年は風林火山だろうというので、あっさり山梨県に決定! いいかげんなもんです。ついでに山本勘助の墓参りでもしてきますか<いっぱいあるらしい
というわけで、第一番「善光寺」に行ってきました。一般には甲斐善光寺といわれています。武田信玄が長野の善光寺からご本尊を奪ってきて祀り、また奪い返されちゃって、いまは別の阿弥陀如来がご本尊とか。善光寺というのはもともと土着信仰と関係が深いらしく、調べてもいないのでわからないのですが(無責任!)、けっこう全国に善光寺という名前のお寺がたくさんあるようなんですよね。
甲府は、ちょっと高台のほうに行くと、本当に街全体が見下ろせます。そして山を背負い、三方も山。盆地なんだなぁとつくづく感じられます。今日はめちゃめちゃ蒸し暑かったですが、梅雨の晴れ間で、富士山もくっきり見えました。この高みから富士を目前に拝し、集落全体を見下ろすと、武田信玄ならずとも「要塞堅固っ!」って感じがします。
大善寺(甲斐霊場第18番)
甲州街道を下って、甲斐への玄関口にあるお寺が大善寺。ここらへんは甲陽鎮撫体が壊滅、敗走したあたりのご近所でもありますね。入り口を入ると、お〜っ、またしても階段! たぶん、117段あったと思います。肩で息をする感じで登りきると、迎えてくれるのは仁王門。1704(元禄17)年に創建され、現在のものは、1798(寛政10)年に再建されたものだそうです。 三間一戸の入母屋造、というものだとか。
柏尾山大善寺は718(養老2)年に行基が薬師如来像を刻み、本尊として安置したことに始まると伝えられています。甲州街道を下って、ここから甲斐に入るという入り口に構える寺院だけあって、寺域も広く、立派です。1176(安元2)年(1176)に伽藍を焼失、再建された堂塔が1270(文永7)年に再び被災、1286(弘安9)年(1286)に北条貞時によって再建されたのが現在の薬師堂だそうです。
この薬師堂は鎌倉和様建築と東大寺大仏様式が組み合わさっているという国宝の建造物だそうです。建築様式のことはさっぱりわかりませんが、落ち着いた風格のある建物であることは確か。堂内にはご本尊の薬師如来像と日光・月光菩薩が安置されていて、いずれもサクラ材による一木造漆箔像で重要文化財になっています。
本堂に上げていただくと、長い階段を登った疲れで畳の上に座ってしばし休息。連れが白杖を持つ人だったせいでしょうか、受付にいた僧侶の方が、お経をあげてくださいました。Tシャツとジーンズという姿でしたが(笑)、そのお気持ちがうれしいですよね。ここにはまだ宗教心というものが生きているんだなと思いました。
薬師堂の横にある鐘楼は1714(正徳4)年に再興されたもので、かつては1668(寛文8)年の銘がある鐘が釣り下がっていたそうです。この鐘、アジア太平洋戦争のときに供出させらちゃったそうです。なんということでしょう! あの戦争で、お寺の鐘などもずいぶん熔かされてヘルメットかなんかに?なっちゃったらしいですね。現在の鐘は、1983(昭和58)年に行われた弘法大師1158年記念行事に新たに作られたものだそうです。
帰り道は階段ではなくゆるやかな坂道。途中に理慶尼のお墓がありました。武田氏滅亡の一部始終を目撃した理慶尼が記した「理慶尼記」は、「武田滅亡記」ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺にいまも保管されているそうです。
薬師堂参拝のあとには庭園に案内されます。庫裏の裏手にあるお庭は、池泉観賞式蓬莱庭園といわれ、県指定の名勝となっています。江戸時代につくられたもので、高野山の普門院、鳥取の興禅寺とともに江戸時代の日本三名園に数えられています。滝や築山石組があり、下側に池泉のある造りは、江戸初期の庭園の典型的なかたちだそうです。
大善寺は「ぶどう寺」とも呼ばれています。これは僧行基が甲斐の国勝沼の柏尾で修行していたら、夢の中に右手に葡萄を持った薬師如来が現れ、行基がこの姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したからだそうです。ここの薬師如来は葡萄を持っているのです。行基が葡萄の作り方を村人に教えたのが、甲州葡萄の始まりだと伝えられています。甲州葡萄が、そんなに前から栽培されていたとは知りませんでした。
お庭を見せていだいている参拝客にも、冷えた葡萄を接待してくださいます。種類ははっきりはわかりませんが、巨峰のような大きい紫の粒、ちょっと薄い色の甲斐路かな、それとうす緑のロザリオビアンコ? どれもおいしくて、みんなで奪い合うようにいただきました。これだけは、この季節に来てよかった〜♪です。
景徳院(甲斐霊場第19番)
16歳で自刃というのは、痛ましいなぁ。とはいえ、日本史にはこんな話はいっぱいありますね。昔の人は死ぬのも早かったけど、おとなになるのも早かったのではないでしょうか。いまの16歳と感覚はだいぶ違いそう。主観的には28歳ぐらいだったような感じがします。根拠なし(笑)
このお寺もやっぱり石段! 山門の脇に「近道」という標示がありましたが、とりあえず表通りから上がっていくことにしました。広々した静かな境内です。緑をたたえた小ぶりな庭があり、小さな池に雰囲気があります。静か……ですよね。お留守でございました〜。また御朱印ゲットならず。お寺さんがいらっしゃるときであれば、裏の十六羅漢像もみせてもらえるという話を聞いていたので、ちょっと残念。
境内の奥には勝頼らの位牌や遺品が保存されているという「甲将殿」がひっそりと立ち、その前に3人の墓があります。お墓は中央が勝頼、右に夫人、左が信勝、ほかに家臣や侍女なども一緒に葬られているそうです。敗軍の将としては、まずまずの待遇ですね。とにかく、勝頼っていうのもめっぽう強かったらしいし。
お墓の前を通り過ぎると、入り口にあった「近道」のところに出ます。この先に本当に遺骸を葬ったところらしい「首無地蔵(没頭地蔵)」があると書いてあったので、降りてみることにしました。しかし、「近道」といわれても、木の根、石ころがゴロゴロの幅1メートルもないような曲がりくねった道で……。こういう所に来るのは年配者が多いのではないかと思いますが、近道どころかちょっと苦行の道。いや、命がけの道かも。
降りきるちょっと手前に「没頭地蔵」はありました。これなら、下から登って、すぐ降りて改めて正面の石段をおすすめだなぁ。しかし「首無地蔵」って、すごくリアルな名前で(-_-;) しかも近くにある池は「首洗い池」とか。もうちょっとオブラートに包んでもらえないものかとちょっと思った次第です(笑)
山門の外はせせらぎが聞こえ、休憩所のようなものも設けられていて、ちょっとした自然散策の場所としてよさそうです。血なまぐさい歴史の舞台となった場所なのですが、いまは清涼感が漂う山あいの古寺という雰囲気でした。