甲斐霊場めぐり
私は別に悪行を重ねたつもりはありませんが(^_^;)、もし、後になっちゃったら汚れ水を渡らなきゃならなくなるし、ここはひとつ、お付き合いしましょうってんで、甲斐百八箇所霊場めぐりを敢行することにしました。簡単にいえば、要するに運転手。煩悩の数と一緒だし、ちょうどよいのではないかと。いっぺんには無理なので、ちょっとずつね。
霊場はどこでもよかったんだけど(^_^;)、都内は移動に混雑が見込まれるところも多いし、今年は風林火山だろうというので、あっさり山梨県に決定! いいかげんなもんです。ついでに山本勘助の墓参りでもしてきますか<いっぱいあるらしい
というわけで、第一番「善光寺」に行ってきました。一般には甲斐善光寺といわれています。武田信玄が長野の善光寺からご本尊を奪ってきて祀り、また奪い返されちゃって、いまは別の阿弥陀如来がご本尊とか。善光寺というのはもともと土着信仰と関係が深いらしく、調べてもいないのでわからないのですが(無責任!)、けっこう全国に善光寺という名前のお寺がたくさんあるようなんですよね。
甲府は、ちょっと高台のほうに行くと、本当に街全体が見下ろせます。そして山を背負い、三方も山。盆地なんだなぁとつくづく感じられます。今日はめちゃめちゃ蒸し暑かったですが、梅雨の晴れ間で、富士山もくっきり見えました。この高みから富士を目前に拝し、集落全体を見下ろすと、武田信玄ならずとも「要塞堅固っ!」って感じがします。
立正寺(甲斐霊場第15番)
水戸黄門が日本全国を経巡り歩いたというのは大嘘だそうですが、休息山立正寺の仁王門の扁額は光圀の書いたものだといわれています。扁額を書いたからといって、ここに来たというわけのものでもないでしょうが。書だけが旅をしたのかもしれないし(^_^;)
日蓮上人がいらっしゃったのは間違いないようで、1270(文永6)年ごろ、門前で立正安国論を講じたのを聞いて、このお寺は日蓮宗に改宗したとのことです。その前は、真言宗のお寺で、それも関東33ヵ国の修験を仕切るような力のあるお寺だったとか。折伏されちゃったってことでしょうか? 名前も立正寺ですものね、よっぽど共感したのでしょう。そして、日蓮が休んだことにちなんで号も休息山と名づけられたそうです。
立正寺の寺域は、とにかく広いです。4000坪もあるとか。境内になっているところのほかは、森の散策路のような感じ。ヒイラギの群生地としても知られているそうです。
庫裏もずいぶん広くて、お年寄りがひとりでお留守番らしかったのですが、ものすごいボリュームでラジオが響きわたっていました。どうもお耳が……。もと住職さんという感じなのでしょうか、なんとか話が通じて、御朱印をいただくことはできました。
一時は「小身延」「東身延」などと称されるほど(身延山久遠寺は日蓮宗の総本山、本拠地です)にぎわっていたそうですが、武田軍が滅亡したときの戦ですべてが焼失し、のちに徳川家や田安家の援助を受けて再興したとのこと。
寺宝として、日蓮上人真筆の曼荼羅や徳川家から受けた御朱印、田安家の駕籠などがあるとのことですが、一般には公開していません。公開日を決めて、ときには見せてくださってもよかろうに、と(笑)
現状では、ちょっと寂れた感じで、残念ながら過去の栄華を感じさせるような雰囲気はありませんでした。
万福寺(甲斐霊場第16番)
境内には聖徳太子がこの地を訪れたとき、乗っていた馬の蹄が石の上に残ったと伝えられる「馬蹄石」という大石があります。それよりもなによりも、境内にそそり立つ幹囲約5メートルのムクノキの大木が有名。周囲を取り囲むには、おとな三人がかりくらいでないとだめですね。県の天然記念物に指定されています。このムクノキばかりではなく、イチョウなど大きな木が目につきます。樹齢何年? それだけの歴史をもつ寺院だということの証でしょう。
このお寺には親鸞聖人が昼食したときに、もっていた杉箸を地面にさすと、箸は芽をふいて大木となったという伝承もあります。この話にちなんで万福寺は「杉の坊」とも呼ばれていたそうです。その杉はいまでは枯れて根元だけが残っているそうで、その根元を囲んだお堂が「お杉堂」と呼ばれています。
御朱印をいただきたいという声に応じてくださったのは、坊守さんでしょうか、若い奥様でした。「はるばる遠くからご苦労さまでございます」と丁寧に慰労していただき、こちらは遊び半分(^_^;)、ちょっとどきまぎしてしまいました。すみません、お参りはまじめにしてますから。
門前の果樹畑で、ちょうど葡萄の収穫が行われていました。たたわに実った葡萄の房には一つ一つ丁寧に袋がかけられていて、甲州は「フルーツの里」なんだなぁと思いました。手を伸ばして一房いただいちゃったり……したら、犯罪です!(笑)