甲斐霊場めぐり
私は別に悪行を重ねたつもりはありませんが(^_^;)、もし、後になっちゃったら汚れ水を渡らなきゃならなくなるし、ここはひとつ、お付き合いしましょうってんで、甲斐百八箇所霊場めぐりを敢行することにしました。簡単にいえば、要するに運転手。煩悩の数と一緒だし、ちょうどよいのではないかと。いっぺんには無理なので、ちょっとずつね。
霊場はどこでもよかったんだけど(^_^;)、都内は移動に混雑が見込まれるところも多いし、今年は風林火山だろうというので、あっさり山梨県に決定! いいかげんなもんです。ついでに山本勘助の墓参りでもしてきますか<いっぱいあるらしい
というわけで、第一番「善光寺」に行ってきました。一般には甲斐善光寺といわれています。武田信玄が長野の善光寺からご本尊を奪ってきて祀り、また奪い返されちゃって、いまは別の阿弥陀如来がご本尊とか。善光寺というのはもともと土着信仰と関係が深いらしく、調べてもいないのでわからないのですが(無責任!)、けっこう全国に善光寺という名前のお寺がたくさんあるようなんですよね。
甲府は、ちょっと高台のほうに行くと、本当に街全体が見下ろせます。そして山を背負い、三方も山。盆地なんだなぁとつくづく感じられます。今日はめちゃめちゃ蒸し暑かったですが、梅雨の晴れ間で、富士山もくっきり見えました。この高みから富士を目前に拝し、集落全体を見下ろすと、武田信玄ならずとも「要塞堅固っ!」って感じがします。
光福寺(甲斐霊場第2番)
光福寺があるのは善光寺から東へ2.5キロほど。ナビには登録されていなくて、この辺かなぁと曲がったところが大当たりで、まっすくお寺に到着しました。階段を上がった観音堂のあたりでなにやら読経の声。巡礼なんでしょうか、おばさん6人、おじさん1人のグループが般若心経を唱えておいででした。
下の観音堂 上の観音堂
甲斐源氏の祖である新羅三郎義光)が、「後三年の役」の戦死した人々を弔うために開山した真言宗の寺院でだったとか。その寺は、山崩れで寺は失われ、1547(天文16)年に武田信玄が、浄土宗岩泉山光福寺として再建したそうです。
富士山が真正面に見えます
お経の声に導かれて?階段を上り、観音堂に到着。実はこれを本堂と勘違いしました(^_^;) お参りしてから右横をみると、観音堂へ上がるという急な石の階段があったので、とりあえず行ってみるかと昇ってみると……、ちょっと広場になっていて、観音堂まで50メートルと書かれた表示がありました。
50メートルならと、歩き出したのですが、これが険しい! 一応、石が階段状になっているのですが、天然石で大きさもまちまち。手で足を引っ張り上げなくちゃ登れないようなところもあって(足が短いだけ?)えらいこっちゃ!
険しい山道のような参道
終点の観音堂は、岩をくりぬいた洞窟のようなところに半分埋め込まれるようにお堂が建ち、足の弱い人には危険かもっていうぐらいのところでした。これは上の観音堂と呼ばれ、最初に参拝したところは下の観音堂ということらしいのです。参拝して下り始めたのですが、こういう道を下るのは登るより恐かったです。その上、むっちゃくっちゃ蚊に刺されて(>_<)
で、降りてきたら、なんと本堂は駐車場のすぐ脇だっていうことを発見。住職と奥様が庭木の手入れをなさっていました。そこで御朱印をいただいたのですが、すごくやさしい物腰の上品な奥様で感激いたしました。
光福寺はたびたび山崩れや火災などにあい、現在の本堂は1965(昭和40)年に、二つの観音堂は1997(平成9)年に建てられたそうです。
大蔵経寺(甲斐霊場第3番)
光福寺から大蔵経寺までは2〜3キロ。その前に、国道に出たとたんに発見したドラッグストアでかゆみ止めを買い、蚊に刺されたところに塗りまくりました〜。いわゆる薮蚊というのでございましょうか、思いっきり真っ赤に晴れ上がり、かゆい、かゆい。これって、修行が足りないってことですか(笑)
このお寺は徳川家とのゆかりが深く、天正の頃には家康の祈願所となっていたそうです。山門の扉とその脇にある大きな灯籠には徳川の紋がはいっており、所蔵品にも徳川家にかかわるものも多いそうです。ですが、中途半端な季節の平日で、あっちこっち鍵がかかっていました。
背後には緑の山がそそり立ち、塀で囲われたお寺自体は大きいものではありませんが広々とした雰囲気です。静まりかえっているので、誰もいないのかなと心配しながら御朱印をもらおうとピンポンしてみました。よかった。お寺の方がいらっしゃいました。
御朱印を書く間に、よろしかったら庭を……とご案内いただいて、上がりこんで中庭を拝見すると、これが見事に手入れされた美しい庭でした。池と白砂と岩が調和して、京都の寺院のような。ピンポンしなければ、これを見損なうところでした。これは一見の価値がありますよ。
石和温泉郷七福神の寿老人も