ニコライ堂
ついでのついで、なんて言ったら怒られちゃうな、地下鉄を目指して歩く途中でニコライ堂に立ち寄りました。ニコライ堂は日本ハリストス正教会の本部で、正式名称を東京復活大聖堂といいます。日本に東方正教会の教えをもたらしたロシア人大主教、聖ニコライにちなんでニコライ堂と呼ばれているそうです。
大きなドーム型屋根が特徴で、前を通りかかったことはもちろんあるし、かなり遠くからも見えるので(高層ビルの少なかった頃は、目印になっていたそうです)、建物はおなじみなのですが、中に入ったのははじめてでした。
ビザンティン様式の荘厳な建築で、聖ニコライの依頼によりロシアの建築家ミハイル・シチュールポフが設計、1891(明治24)年に竣工したそうですが、1923(大正12)年9月1日、関東大震災で上部が倒壊、1929(昭和4)年に塔を低くするなど、外観の一部が変更されたうえで復興。
内部は撮影禁止です。
敷地内には神学校、信徒会館であるニコライ会館、伝道会などに使われる旧ニコライ学院、東京大主教館、聖ニコライ記念聖堂があるそうです。この日は日曜日だったからでしょうか、何かの勉強会や賛美歌の練習が行われていました。
礼拝堂は、淡い光が差し込み、聖者の絵などがローソクの灯に映し出されて、自然に頭が下がるような雰囲気です。足音など立てないように!
拝観維持費(ろうそく代)として見学料300円を支払うようになっていますが、ちゃんとローソクをくれるので、自分で火をともしてささげることができます。
湯島聖堂
御茶ノ水の駅を降りると、神田明神に行く途中に「湯島聖堂」があります。すでに、きっと何百回(は、オーバーかもしれないけど)も前を通っているのに、一度も足を踏み入れたことはありませんでした。恥ずかしながら、ここが孔子廟だっていうのも、建てたのが犬将軍綱吉だったっていうのも知らなかった(^_^;)
そこで、得意のついでコースで、ちょっと見学してきました。
後に幕府の昌平坂学問所(昌平黌)になり、明治維新以降は東京大学へと続く系譜に位置するのだそうです。昌平とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって孔子の諸説、儒学を教える学校の名前となったそうです。
この孔子像は世界一の大きさだとか。
明治以降、湯島聖堂の構内には文部省、国立博物館、師範学校(旧東京教育大学/現筑波大学)、女子師範学校(お茶の水女子大学)などが一時同居していたことがあるそうで、学業成就というか、合格祈願の願掛けのメッカになっているらしいです。敷地としての昌平坂学問所の跡地は、ほとんどが現在東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっているとか。
大成殿は広々としていて、私のように神田祭ついで参りの人がちらほら見受けられましたが、隣のお祭が嘘のように静か。受験シーズンはたぶん多くの人が訪れるのでしょうね。合格祈願の絵馬がぎっりしと並んでいました。参拝に来る受験生は、ほとんどが合格祈願の鉛筆を買っていくそうです。
合格祈願の定番はやっぱり「鉛筆」ですね。
テレビドラマ、堺正章主演の「西遊記」も香取慎吾主演の「西遊記」もこの大成殿でロケをしたそうですよ。
神田祭
今日は、神田祭のお宮入り。さすがに東京を代表するお祭らしく、お神輿の数も多いし、見物客もそうとうな人数でした。予定より1時間以上スケジュールが遅れていると役員のみなさまはじれておいででしたが、そのせいでしょうか、お宮に入る順番を待つお神輿も道路にずらっと並んでいて、行けども行けども行列が終わらないので、あんまり遠くへは行きませんでした(^_^;)
順番待ちは道路で待機。一基ずつ宮入します。
府中と違って、こっちの警察/機動隊は何も言わずにもくもくと警備してるし、境内も開放してお客さんも自由に動けるし(下手すると一緒に担げそうな距離まで近づけるし)、神輿が通るときは「はいよっ、ちょっと神輿に道をあけておくれっ」なんて、半纏のおじさんに声をかけられて、見物のお客さんも「はい、はい」と脇によけるような。人はいっぱいいましたが、けっこうほのぼのと混んでました(笑)
町内によって担ぐ神輿の大きさや形は違い、町内ごとに半纏の色も違います。ご近所の方なら、どこの神輿が宮入なのか一目でわかるのでしょうね。部外者は、一生懸命、提灯に書かれた町の名前を読んだりして。
街を練り歩いてから宮入し、お祓いを受け、参拝した神輿は、また再び街へ出て行きます。道路には給食車両がいて、担ぎ手がちょっと休憩してたり、割烹着姿のねえさんたちが炊き出しにでてたり、そんな風景もなかなか風情があります。
給食班は道路で待機。
くたびれ果てて、半纏姿のまま、塀に寄りかかって熟睡しているねえさんもいました。疲れるのは疲れるでしょうけど、祭に参加して疲れるのっていいうのもいいよね。
今年、80年ぶりに復活したという、普通の神輿とは形状の異なる「入母屋造」、台輪3尺5寸という巨大な将門塚保存会の神輿
写真をいっぱい撮ってきたので、「縁日ガイド」のほうへも上げておきました。「近づくな」とか「何々するな」とかあまり野暮なことはいわないだけでなく、鳥居にも石塔にも登り放題みたいな(笑) 私もちょっと鳥居の足に登って写真を撮ってみました<年寄りの冷や水(^_^;)
高齢医学
ここんところ、諸般の事情でちょっと病院通いが続いています。大学病院なのですが、「高齢医学」という科があります。ここのドクターや看護士さんたちはエラク元気がいい……と思ったら、高齢者相手で、患者がみんな、お耳が遠かったりするもんで、必然として声がでかくなる、ってことだったようです(^_^;)
高齢になると、悪いところが1ヵ所ということは少なくて、まあ、多臓器不全といいますが、あっちもこっちもってことは多いですよね。大きな病院だといろんな科をハシゴなんてこともありがちだし、あっちとこっちがうまく連携してくれなくて……なんて話も聞かないではありません。数年前に友人のおかあさんが脳出血で倒れて、ドクターが脳の検査ばかりをしていたら、心臓発作を起こして、結局、亡くなったなんてこともありました。
その点、この「高齢医学」科っていうのは、もちろん担当医はいるのですが、脳とか、心臓とか、いろいろな専門医がそれぞれ担当医と連携して診てくれます。そして、例えば消化器科のドクターが生検をしたいといっても、心臓のドクターがもう少し様子をみたほうがいいでしょうなんて話し合いがあるみたいで、これはすごいなって思いました。
願わくば、「高齢」な人ばかりではなく、どの病院でも誰にでもそういう体制を組んでくれたらいいですよね。この病院はすでにそうなのかもしれないけど。内部の人ではないので、どんなシステムになっているのかは知りませんが。
まあ、だからといって、あまり病院に縁があるのもいかがなものかと(-_-;) 人間、誰でもいつかは死ぬんだけど、それまではしっかり自分の足で歩いていたいですよね。
土方さんの命日
今日は土方歳三の祥月命日です。1869(明治)2年5月11日没。これは旧暦で、いまのカレンダーでは6月20日になるようです。享年35歳といいますが、これも満年齢に直すと34歳と3週間ぐらいですかね。若いよね。そして、いまの34歳に比べたら、なんて「おとな」なんだろうと思っちゃう。
去年と一昨年は、この時期に函館にお墓参り?に行っていたのですが、今年は行かれませんでした。って、単に交流戦で札幌ドームに行って、行きや帰りに函館の朝市に海鮮丼を食べに行ってただけだよん(笑)
土方歳三のお墓というが供養碑のようなものは、あっちこっちにあって、お墓参りもなかなか大変です。函館では「最後の地」の碑、碧血碑、称名寺、そしてここに埋められたのではないかと思われる五稜郭と4ヵ所は走り回らなければなりません。
何度か移転したらしいけど
状況からみて、五稜郭に葬られた可能性が高いと私は思うのだけれど、いずれもお骨はないんですよね。そういえば、五稜郭の回収のときに高級将校らしき人のお骨が発見されて、土方歳三ではないかといわれたという話があるけど、そのお骨ってどうなっちゃったんだろう? いまならDNA鑑定か何かでけっこういろいろなことがわかりそうなんだけど。
歳三碑といえば、会津の近藤勇碑の横にもありますね。ここは数年前にお参りしました。鶴ヶ城が落城した日に行われる?会津藩公行列を見に行ったのでした。そして、石田寺にも墓碑があります。お墓参りは最低6ヵ所? 一応、全部、行きました(^_^;)
いろいろな装束が見られて楽しい藩公行列
なんか、流山以降の土方歳三っていう人にすごく興味があるんですよ。京都時代はまあ、頭もよくて腕っ節も強くかっこいいお侍さんだけど、時の権力者の最強警察部隊のリーダーのひとりっていうだけですよね。
でも、流山以降って、局地戦では絶対負けない戦いをしてるけど、全体としては負け戦が見えていたはずだし、それをわからない人じゃない。本人は畳の上で死ぬ気はさらさらなかったでしょう。その中で、何を考えながら日々を戦っていたのかなぁ。ぜひ、会って聞いてみたいです<無理だろ〜よ〜(-_-;)