牛嶋神社「神幸祭」
牛嶋神社の大祭は5年に1度しか行われないので、見逃すわけにはいかないとばかり出かけていきました。13日は式典、14日と15日は牛車を中心とした祭礼巡行が行われ、16日は町内の神輿が勢ぞろいする連合渡御が行われます。神輿渡御も見たいけれど、牛車というのは珍しいものなので、今日の神幸祭に行ってきました。今年はとくに御鎮座1150年に当たる記念祭だそうです。
黒牛が引く鳳輦を中央に、高張、鳶金棒などが先導、太鼓を乗せた台車、衣冠束帯の正装した神主さんたち、かわいい稚児さんたちも一緒に街を練り歩いていました。鳳輦—ほうれん—というのは、天子や高僧などの乗り物とされる車で、神輿のように威勢よく担ぐのではなく、静かに運ばれたり、車輪をつけて黒い牛が引くのが一般的で、中国から伝わった乗り物です。鳳輦の起源は神輿より古いそうです。
神輿は16日の渡御に備えて、各町内の御座所に鎮座しています。牛車は、その一つ一つを回り、神輿の前で宮司の祝詞?が唱えられることになっているようです。神輿の前の道には砂が敷かれていて、その上に鳳輦を停車させて、何やら儀式が行われるのですが、部外者には何が行われているのかは見当がつきません。みなさん、神妙に頭を下げて宮司さんの言葉を聴いていらっしゃるので「何してるんですか〜?」なんて、尋ねられませんでした(^_^;) ときどき、牛が「もぉ〜」なんて鳴くのが、なんとなくのどかでした。
16日に連合渡御される神輿は、区内それぞれの町にあり、全部で48基とか。3カ所に集合し、順次宮入りするそうです。都内には3基しかない八棟神輿も出るとのことで、これも見てみたいものですが。
牛嶋神社は860(貞観2)年の建立で、墨田区で最も古い神社になります。本所の総鎮守で、境内にある「なで牛」は、自分の悪い部分をなでて、牛の同じ部分をなでると病が治ると言われます。祭礼巡行を追いかける前に頭をなでてきましたが、ご利益はありますかね? ちょうど境内の掃除をしていた神主さんに「いま、ご祭礼はどの辺にいるでしょうか?」とうかがったら、祭礼順路を書いた扇子をいただきました。いただきましたって、有料です(-_-;) でも、順路と予定時間を丁寧に説明してくださったので、すぐにご祭礼の巡行に出会うことができたので、それはそれで(笑)
「縁日ガイド」にも写真を紹介しています。
恵林寺(甲斐霊場第9番)
乾徳山恵林寺、「えりんじ」と読みます。甲斐武田氏の菩提寺として武田信玄の葬儀が行われた臨済宗の寺院です。14世紀初頭、鎌倉時代に開山され、一時は荒廃したものの、1564(永禄7)年に武田晴信(信玄)によって復興されたお寺だそうです。
信玄が没したのは1576(天正4)年、その6年後の天正10年には織田軍によって焼き討ちにあったということで、波乱万丈な歴史を経てきた寺院のようです。このとき、快川和尚が燃え盛る山門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と言って焼死したことが有名です。こんな故事は知らなくても「心頭を滅却すれば……」というのは、誰でもどこかで聞いたことのある言葉ですよね。
宝物殿もあります
のちに徳川家康によって再興され、5代将軍綱吉時代に甲斐の領主となった柳沢吉保が大規模な修復をはかったとのこと。信玄の墓所がある本堂裏の西側には、柳沢吉保夫妻の墓もあります。
さすがに信玄の廟があるお寺らしく、でっかい!という印象です。本堂を拝観するためには拝観料300円なり。入ってみようかしらと思っていたら、どーっと団体さんが……。大型観光バスが着いたようです。「越後交通」という旗をもったガイドさんが少なくとも4人はいたので、200人近い人々でしょうか。そっか、今年は風林火山ですからねぇ。あまりの人ごみに圧倒されて、中に入るのは見合わせました。また、ブーム?が去った後にでも機会はあるでしょう、と。
寺院も大きいですが、境内もお庭も立派なものです。これまで回ってきたお寺の中では群を抜いていました。南北に長い敷地の南端には「雑華世界」の偏額がかかる黒門、長い参道を200メートルぐらい進むと重要文化財の四脚門(赤門)、ここを入ると明るく広い庭園になっています。ここには茶店や売店などもあって、観光客があちこちのベンチに腰をかけくつろいでいます。この庭の北端には県指定文化財の三門、その先に開山堂、本堂、庫裏などが建っています。いや、本当に広い! ここより大きいのは身延山久遠寺ぐらいでしょうかね。
あまりの人の多さに行ってみなかったのですが、裏手にある庭園は1944(昭和19)年6月26日に国の名勝に指定されているそうです。上段が枯山水、下段が心字池を配した池泉回遊式で、「その規模の大きさと美しさは他に類を見ない」と言われます。この辺りの寺院をあと100近くうろうろしようという目論見なのですから、人の少なそうなときにまたゆっくり訪ねたいと思います。
こんな大きなお寺で、訪れる人も多いのに、御朱印を僧侶が筆をとって一つ一つ手書きしてくださるのは、当たり前の風景かもしれませんが、ちょっと驚きました。小さなお寺でも印刷、あるいは複写したものに判だけ押して日付を書き込むというところが多いので。汗だくで御朱印を書いてくださっている僧侶の前には、御朱印帳が山のように積まれていました。団体さんより一歩だけ、先に御朱印帳を差し出したのは本当にラッキーでした(^_^;)
つまらない一日
ここで政治的な話をする気は全然ないですけど、政界の朝青龍か? って、感じがしました(笑) これって逃避行動じゃないの? とか。なんだかストレス過多に耐えかねて、逃げ出しちゃったような感じがしちゃうのですね。一国のリーダーとしては、精神力が弱いかも、とか。
雨がやんだので、ふらっと本屋に行って、図書館に行って、そのまま映画館なんかいっちゃって、「HERO」なんか観ちゃって、帰ってきて、習慣的にナイターなんかみちゃって、まあ、この「美しい国」の行方なんかどこ吹く風……という一日を過ごしちゃったので、政治家の悪口なんか言えた義理ではないですけどね(-_-;)
平日の昼間だっていうのに、「HERO」やってるスクリーンはけっこう人が入ってました。やっぱり圧倒的に女性が多かったですね、老いも若きも。やっぱりキムタクって、人気があるんですね。男性がどのくらいいるのかなって、数えてみたら、単独で3人、初老のふたり連れが1組、カップルが9組でした。だから、何?(笑)
二百二十日
今年は、これまで上陸した台風は3つ。10年ぐらいのスパンでみると上陸する台風は年間2〜4ぐらいのようです。でも、10個も上陸した年もあるので、油断は禁物という感じですね。
東海以北は9号にはひどい目にあわされました。台風10号は陸地をかすめることなく去っていったようですけど、また奄美諸島には大雨洪水警報が出ているとか。これはまだ熱帯低気圧ですけど、ほとんど台風といってもいいぐらいですよねぇ。大きな災害がないといいのですが。
台風と呼ばれるのは、熱帯低気圧のうち北西太平洋や南シナ海にあり、低気圧域内の最大風速がおよそ17m/s(34ノット、風力8)以上のものだそうです。この基準を満たしていないために「台風」と呼ばれなくても、それに近いものは十分な脅威ですよね。そういう意味では秋雨前線だって、脅威になり得ます。
自然というものは、美しいし、素晴らしいし、怖いものだなぁ、と。今日の関東地方が梅雨前線の影響でどんより、むしむし。雨の予報も出ているようです。
行人坂界隈
さんまを消化させるために?目黒駅近辺を探索。何度も通っている地域ですが、本当に通り過ぎるだけで、これまでゆっくりここら辺りを歩いたことはありませんでした。行人坂を目黒川に向かって降りていきます。途中に「大円寺」というお寺があり、行人坂の由来はこの寺にまつわるものだそうです。17世紀初頭の寛永年間にこの辺りに巣食っていた不良のやからを放逐するため、幕府が奥州から高僧行人「大海法師」を迎え、 大日如来の堂を建立したのが始まり。大円寺には、行人(修行者)が多く住んでいたため、行人坂と呼ばれるようになったとか。
大円寺の入り口に「八百屋お七・吉三の墓」があると書いてあったので、ちょっとのぞいてみることにしました。あいにく大円寺の墓地は非公開で、八百屋お七のお墓は見ることはできませんでしたが、入り口を入ってすぐ左側にある羅漢さんに圧倒されました。この大円寺が火元といわれる1772(明和9)年の行人坂の火事は、振袖火事、車町火事と並んで江戸三大火のひとつです。火は、折からの強風により、白金、神田、湯島、下谷、浅草までを焼きつくす大火となったそうな。この石仏群は鍛冶の犠牲者供養のために、50年の歳月をかけて完成したといわれています。釈迦三尊像、五百羅漢像など、520体もあるという石仏像は、1970(昭和45)年、東京都の有形文化財に指定されたそうです。
行人坂を下りきった、雅叙園の入り口に「お七の井戸」がありました。八百屋お七は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋太郎兵衛の娘。八百屋お七の話はいろいろな説があり、登場人物もいろいろで、単なる物語なのでは?と思わせるところが多いのですが、天和の大火で寺に避難した際、吉三に惚れ、火事になればまた会えるのではないかと放火して、捕まって鈴ヶ森刑場で処刑されたというのが大筋。歌舞伎などの演目でおなじみですよね。
吉三はお七が処刑された後、西運と名乗る僧になり、明月院という寺に入ってお七の冥福を祈ったとか。その明月院は雅叙園の入り口から庭園のあたりにあったもので、明治13年まで現存したといいます。その面影を伝えるのが、雅叙園の入り口にある「お七の井戸」。西運が念仏行に出る前にここで手を清めたことから、そうよばれているという説明でした。
ただこれだけのものですが
雅叙園は、いまでも和風の素敵な風情を楽しめる建物として、結婚式などに人気ですが、かつては広い庭園と歴史のある素晴らしい建築と内装で有名でした。美術品だけで何十億という価値があったそうです。この古い建築は一部を残して、1988(昭和63)年に改築され、美術品も相当数が処分されたとか。
百段階段と絢爛豪華な江戸時代の部屋の一部は残されているというので、ぜひ拝見したいものだと思ったら、現在は一般公開されていないそうです。「すみません、入れません」と止められたスタッフの方が昔のことをよくご存知の方で、いろいろなお話を聞かせていただきました。ラッキー! たまたまテレ朝の取材が入っていて(外国人を中心に撮影が進められていたようなので、「外国人から見た日本の文化」的な番組なのでしょうね)、その解説に立ち会っていた後らしかったです。この番組は、19日(水)の夕方6時半ごろから放映されるらしいので、もしかしたらここで雅叙園のすごい壁画や天井画、美術品などを垣間見せてもらえるかもしれません。
この百段階段という建物に入れる手段が一つあるそうです。月のうち何日か、決められた日に見学プラス食事のツアーが用意されているとか。うーむ、ランチに1万円近くかかるのでは、貧乏人にはきついですねぇ。でも、大枚はたいて、一生に一度ぐらいは見ておく価値があるかもしれないと思いました。