ある小説の中に、世界を旅して「何を祀ってあるのかわからないんだけど、地元の人が拝んでいるものには手を合わせることににました。そうしたら、なぜか商売がうまくいくようになったんですよ」というフレーズがありました。SFだし、本筋とはまったく関係ないんだけど、心に残った一節です。そんなわけで(どんなわけで?)、日々の何気ないできごとを綴ってみようかと思います。
2007/10/04  (木) 

万福寺(甲斐霊場第16番)

等々力山万福寺は、浄土真宗のお寺です。縁起によれば、604年に聖徳太子の命によって創建されたといいますから、めっぽう歴史のあるお寺ですね。はじめは法相、天台、真言という三つの禅宗の道場だったそうですが、1228(安貞2)年に遊説中だった親鸞の教え出会い、1244(寛元2)年に浄土真宗に改宗したといいます。お寺の改宗ってけっこうあるものなんですかね? いわば当時の新興宗教への鞍替え、そういう時代だったのでしょうか。
 
境内には聖徳太子がこの地を訪れたとき、乗っていた馬の蹄が石の上に残ったと伝えられる「馬蹄石」という大石があります。それよりもなによりも、境内にそそり立つ幹囲約5メートルのムクノキの大木が有名。周囲を取り囲むには、おとな三人がかりくらいでないとだめですね。県の天然記念物に指定されています。このムクノキばかりではなく、イチョウなど大きな木が目につきます。樹齢何年? それだけの歴史をもつ寺院だということの証でしょう。
 
このお寺には親鸞聖人が昼食したときに、もっていた杉箸を地面にさすと、箸は芽をふいて大木となったという伝承もあります。この話にちなんで万福寺は「杉の坊」とも呼ばれていたそうです。その杉はいまでは枯れて根元だけが残っているそうで、その根元を囲んだお堂が「お杉堂」と呼ばれています。
 
御朱印をいただきたいという声に応じてくださったのは、坊守さんでしょうか、若い奥様でした。「はるばる遠くからご苦労さまでございます」と丁寧に慰労していただき、こちらは遊び半分(^_^;)、ちょっとどきまぎしてしまいました。すみません、お参りはまじめにしてますから。
  
門前の果樹畑で、ちょうど葡萄の収穫が行われていました。たたわに実った葡萄の房には一つ一つ丁寧に袋がかけられていて、甲州は「フルーツの里」なんだなぁと思いました。手を伸ばして一房いただいちゃったり……したら、犯罪です!(笑)



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2007/10/03  (水) 

立正寺(甲斐霊場第15番)

水戸黄門が日本全国を経巡り歩いたというのは大嘘だそうですが、休息山立正寺の仁王門の扁額は光圀の書いたものだといわれています。扁額を書いたからといって、ここに来たというわけのものでもないでしょうが。書だけが旅をしたのかもしれないし(^_^;)
 
日蓮上人がいらっしゃったのは間違いないようで、1270(文永6)年ごろ、門前で立正安国論を講じたのを聞いて、このお寺は日蓮宗に改宗したとのことです。その前は、真言宗のお寺で、それも関東33ヵ国の修験を仕切るような力のあるお寺だったとか。折伏されちゃったってことでしょうか? 名前も立正寺ですものね、よっぽど共感したのでしょう。そして、日蓮が休んだことにちなんで号も休息山と名づけられたそうです。
 
立正寺の寺域は、とにかく広いです。4000坪もあるとか。境内になっているところのほかは、森の散策路のような感じ。ヒイラギの群生地としても知られているそうです。
  
庫裏もずいぶん広くて、お年寄りがひとりでお留守番らしかったのですが、ものすごいボリュームでラジオが響きわたっていました。どうもお耳が……。もと住職さんという感じなのでしょうか、なんとか話が通じて、御朱印をいただくことはできました。
  
一時は「小身延」「東身延」などと称されるほど(身延山久遠寺は日蓮宗の総本山、本拠地です)にぎわっていたそうですが、武田軍が滅亡したときの戦ですべてが焼失し、のちに徳川家や田安家の援助を受けて再興したとのこと。
 

寺宝として、日蓮上人真筆の曼荼羅や徳川家から受けた御朱印、田安家の駕籠などがあるとのことですが、一般には公開していません。公開日を決めて、ときには見せてくださってもよかろうに、と(笑)
 
現状では、ちょっと寂れた感じで、残念ながら過去の栄華を感じさせるような雰囲気はありませんでした。



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2007/10/02  (火) 

清白寺(甲斐霊場第14番)

再び、甲斐に戻ることにしましょう。甲斐霊場第14番は、山梨市にある海涌山清白寺。西側にある井戸は日照りのときにも涸れることがなく、諏訪湖に通じていると言い伝えられているところから「海涌山」という号があるそうです。
 
お寺に通じる参道はやっぱり狭く、前を通過したのに気づかず、行き過ぎて一周するということになりました。まあ、この甲斐周遊、一周ですんだのはいいほうですね。狭い参道ですが山門までまっすぐのびていて、両側は梅の木がたくさんあります。早春にはさぞ可愛らしい花と優しい香りに満ちることでしょう。美しい参道です。
 
清白寺は、1333(正慶2)年に足利尊氏が創立したと伝えられるお寺。墨書が発見され、仏殿の建立は1415(応永22)年とわかっているそうです。重要文化財に指定されている清白寺の仏殿は「方三間裳階付仏殿」とよばれる禅宗様建築の代表的なものだそうです。禅宗が栄えたのは鎌倉から室町時代ですが、室町中期のもので残されているものは少なく、かなり貴重な建物だとか。派手さはありませんが、木造建築の美しくも渋いたたずまいを見せています。
 
庫裏は江戸時代、1689年〜1693年(元禄2〜6)年に再建されたもの。茅葺の一重切妻の屋根になにやら風格が漂います。建築のことは不案内ですが、いろいろな角度から眺め回したくなるような、姿の美しい建物だなぁと思いました。本堂は、1693年〜1713(元禄6〜正徳3)年(年)に建立されたものといいますが、いずれにしても長い間の風雪に耐え、より貫禄を増したような、懐の深い感じの寺院です。
 
鐘楼に登ってみました。とりわけ高所恐怖症というわけではないつもりでしたが、ちょっと怖くて背中がピリピリしました。高さはさほどでもないのですが、はしごのようなものを上がっていくので、足場が怖いのかも。ひょっとして、勝手に上ってはいけなかったのかもしれませんが(笑)
  
御朱印をいただきに行くと、受けてくださった若い僧侶らしき人が探していた太子寺の連絡先をわざわざ調べて教えてくれました。山梨のお寺さんは総じて親切。武田信玄の里というと猛々しいイメージがありますが、人々は穏やかで優しい方が多いという印象です。お寺の数も多く、信心深い人々の里なのでしょうね。



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2007/10/01  (月) 

エスカレータの立ち位置

大津へ行くにあたって、連れとは現地で会いました。連れとは、言わないでしょうかね? どっちも東京から行ったのに(笑)
 
出会ったとき、最初に口にしたのが、ふたりとも同じせりふでした。「関西ではエスカレータは右に避けるって聞いていたのに、左側に避けてるよね?」。出会いの挨拶としてはかなりおかしなものですが、奇しくも同じようなことに興味をもっていたのですね。
 
エスカレータで、急いでいる人に先に行ってもらうために立ち止まるのはどっち側? 東京では左に立ち、右側を空けます。関西では右に立ち左側を空けるそうです。この空ける側の違いが切り替わるのが大垣あたりと聞いたことがあるので、実は興味津々、駅のエスカレータを観察していたというわけです。
←京都駅   東京駅→

前に女子高生でもいたら、迷惑防止条例で逮捕されるとこだった!?


たまたまではなく、いつでも、京都は左側を空けていました。東方面からの観光客が多かったのでしょうかね。大津では降りなかったのでわかりません。草津、米原では、平日の昼間という閑散としている時間帯だったせいかエスカレータを使っている人が少なく、みんな真ん中に立っていたりして、混雑時はどうなっているのか見ることができませんでした。
 
う〜ん、謎は深まるばかり。夜も眠れなくなりそう(これは、かなり古いなぁ〜)。
 
日本は自動車が入る前は、人間が左側通行だったそうです。これは、侍は刀を左腰に差して右手で抜くため(斉藤一は左利きで、逆だったということですが)、すれ違いざまの攻撃を回避するため、右に他人を置いてすれ違う習慣があったと聞いたことがあります。うがちすぎでしょうかね。
 
じゃあ、どうしてクルマが走るようになったとき、人は右側、自動車は左側になったのでしょう? 国際的には逆パターンのほうが多いようですし、そのまま人は左でもよかったような。明治時代は、国内交通網の整備は鉄道を中心に据えていたので、英国に範をおき、ついでに道路の使い方も見習っちゃったのでしょうか?
 
人間右側の先進国(当時の)では、銃器だったので右を歩こうが、左を歩こうが身体の防衛には関係なかったんでしょうかね?
 
あ〜、考え始めるとホントに夜も眠れない(笑) そんなつまらないことを観察してないで、階段から転げ落ちないように気をつけなければいけないのは、豊富な転落体験をもつ私でした(-_-;)



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2007/09/30  (日) 

竹生島探訪

草津を後にして、「竹生島へ行ってきました」の続きです。伊東甲子太郎が襲われる前に謡曲「竹生島」を口ずさんでいたことで有名……ってなわけはありません(笑)竹生島は、琵琶湖の北部に浮かぶ島で、国の指定名勝および指定史跡になっています。神の宿る島、神を斎く(いつく)島から、この名があるといわれていると、長浜から乗った琵琶湖汽船の船内案内で教わりました。竹生島へ渡るルートは長浜港からと今津港からが一般的で、彦根港からも船が出ているようです。
 
竹生島は全島が緑の樹木で覆われており、琵琶湖八景の一つにも数えられていますが、謡曲や能の演目になっており、近世邦楽の中で見聞きすることが多いのではないかと思います。このあたり、私はまったく暗いので、竹生島まで足を延ばしたのはただの酔狂です(^_^;)

島の周辺は水深が深く、西側付近は琵琶湖で一番深いそうです。ここににょっきりと竹生島が生えている感じで、もし琵琶湖の水がなければ、なにかでっかいトーテムポールのようなものになりそう。北には湖底遺跡があり、多数の土器が引き揚げられているそうです。この土器は縄文時代から弥生時代、中世にまで及ぶものもあり、なぜこのような土器がここに多数沈んでいるのかは、いまだ謎、だそうです。
 
島全体も急勾配で、竹生島の港に着くと、まず目の前に立ちはだかる階段に圧倒されます。137段とか。また階段かぁ〜。神社仏閣めぐりにはもれなく階段がついてくるようで(-_-;)
 
下船したみなさんはまっすぐ宝厳寺に続く階段を登っていきました。ここは西国三十三箇所三十番、歴史のある荘厳な建物です。が、ちょっと賑やかな中年男性グループ(ま、うるさいオヤジどもですね)がいたので、私は途中で道をそれて逆順路、観音堂のほうから歩き始めました。この先、都久夫須麻神社(竹生島神社)へ行くのに豊臣秀吉の御座船「日本丸」の廃材で作られたという重要文化財「舟廊下」を通ります。天井を見上げると、「舟が逆さまになって屋根になっている!」という感じです。
 
都久夫須麻神社は縁結びですから、とりあえず最初に行かなきゃね! と、あちこちの縁結びの神にお願いしすぎてどこからもそっぽを向かれているとか? 社の前には、「かわらけ投げ」のステージがあって、かわらけ(素焼きの皿)に願いごとを書いて断崖から投げ込み、それからお祈りするとご利益があるそうです。私は肩まで一緒に投げ込んでしまうと困るので、やめておきました。だから、ご利益がないんだ!(笑)

 

平日の昼間で、観光シーズンには少し早いせいでしょうか、一緒に上陸した人々は20人あまり、他の港から来た人を入れてもたいした人数ではありません。逆コースは閑散としていて、ちょっと不気味な感じも。しまった、うるさい人々について行けばよかったかな?
  

 
普通は下ってくる階段を登っていって、宝厳寺へ。ここにはご本尊の弁財天が祀られています。1942年に完成したものだそうですが、仏堂は平安時代後期の様式で屋根は総桧皮葺きの立派な建築です。境内の目立たない隅にある「五層の仏塔」は鎌倉時代に造られたものといわれ、地・水・火・風・空の五大をかたどった高さ2メートル47センチの石塔。石材は滋賀郡の山中から採れる小松石だそうです。また階段があって三重塔、宝物殿があります。
  
正面の階段の途中には瑞祥水が湧き出しています。深さ230メートル(湖底下約 130メートル)から汲み上げる清湧水ですが、歴史は新しく5年ほど前、2002(平成14)年11月に、神のご神託によって掘られた霊泉とのこと。現代においてもご神託を下される神がいらっしゃる、やはり不思議な島なのです。
 
帰りの船が迎えに来てくれるまで、けっこう時間があるので、もう一度、順路のほうから一周。クイズ、私はいったい何段の階段を登ったり降りたりしたでしょうか? この階段は「祈りの階段」と呼ばれるそうです。

 

長浜に戻って、長浜城(復元ですが)に行ってみました。中は資料館になっているのですが、「年中無休」って書いてあるのに、その日に限って「改装のため臨時閉館」。私の運って……(-_-;)

 



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招き猫の日
2007セリーグ最終戦