深大寺散策
1695(元禄8)年に建てられたという本堂の山門を出て、ずっと右のほうに行くと、寺域のはずれのほうに深沙大王堂というのがあります。小さな堂ですが、17世紀後半の建築で、調布市内最古の建造物として市の文化財に指定されているそうです。この深沙堂には、鎌倉時代に作られた深大寺の秘仏「深沙大王像」が安置されているそうですが、秘仏というくらいで見せてもらえるわけではありません(-_-;) 高さ57センチの水神で、髑髏の胸飾りをつけ、象皮の袴をはき、憤怒の形相をしているそうです。怖そうですねぇ。深沙大王は、玄奘三蔵が仏法を求めて天竺を旅したときに力を貸してくれた神であるといわれています。西遊記の世界でしたか。
裏に回ってみれば、小さな池があり、なるほど水神を祀ってあるという雰囲気があります。ひょっとしたら、深大寺の本質はこっちのほうにあるのかな、とか。池には赤い金魚が十数匹泳いでいました。岩と緑の中に赤い魚影がかなりすばしこく動いているのは、なかなか絶妙なコントラストです。
この深沙大王堂は深大寺縁起から縁結びの神ともされています。その縁起とは次のようなこと。昔、この地に福満という若者がやって住み着き、やがて村の娘と恋に落ちました。しかし、どこの馬の骨ともわからぬ男に、どうして大切な娘がやれようかと、娘の両親は大反対。父母は娘を池の小島に閉じ込めてしまったのだそうです。
娘に会いに行かれなくなった福満は、三蔵法師が深沙大王に助けられたという話を思い出して、娘に会うことができたら、ここに社を建ててあなたを祀りますと深沙大王に一生懸命に祈ったとか。するとの中から大亀が現れ、福満を娘のいる小島へ渡してくれたということです。それを聞いた娘の両親が、ついに福満を婿に迎えることを承知するというお話です。
こうして結ばれたふたりに息子が生まれ、その息子、満功上人は出家して唐に渡り仏教を学んで帰り、父が深沙大王に祈った場所に深大寺を開いたというのが、深大寺の縁起であるそうな。なるほど、微妙に縁結びの神かもしれません。
10月20日(土)には「そばまつり」が開催されるそうですが、「そば守供養祭」が行われるほか、その恋物語にちなんでカップル50組を無料招待し、「縁結び特別護摩」や「縁結びそばのご接待」などを企画しているそうです。なんでも恋愛小説の公募をしていて、そのときに優秀作が発表されるというような話もありました。まあ、私はカップルに縁がないので、どっちもどうでもいいんですが(笑) そしてやっぱり、寺域というものは階段がもれなくついてくるんですねぇ(-_-;)
恋愛の縁起物もたくさんありますが、それを身に着けて「効かない!」「もっと効くのはないか!」と難癖をつけてくる御仁もいらっしゃいますが(笑)、こういうものはあくまでも縁起物。縁起物に助けられるためには、まず自助努力が必要だと申し上げておきましょう(大笑)
青渭神社「祭礼」
青渭神社(東京都調布市)は、「あおいじんじゃ」と読みますが、近隣では「あおなみさん」の愛称で親しまれています。昔は神社の境内にあった大池に湧き水があり、青波をたたえていていたところから青波神社と呼ばれていたそうです。その大池はまったく姿を消しておりまして……、道路になってしまったのでしょうか。青渭神社の「渭」という字は、中国の古都長安の北を流れる渭水という川からとったものらしいです。渭水は古代から清らかな水として有名な川です。
小さな村の鎮守様という趣ですが、延喜式神名帳に「武蔵國多磨郡青渭神社」として記載されているように、けっこう由緒正しき神社のようですよ。調布市のほかに稲城市東長沼と青梅市沢井に同じく「青渭神社」というのがあります。稲城にも行ってこようと思っていたのですが、お蕎麦屋さんでちょっと根っこがはえちゃって(^_^;)
青渭神社の創建年代は不詳ですが、祭神の青渭大神は水波能売大神と青沼押比売命とされ、大池に棲む大蛇を祀ったといわれています。水の神さまであるのは間違いなさそうですね。旧深大寺町の総鎮守で、お祭にはそれぞれの地域の名前を染め抜いた祭半纏の若い衆が神輿を担ぎます。掛け声とともに打ち鳴らされる触れ太鼓に特徴があるようですね。祭礼には青渭獅子舞と呼ばれる獅子舞も奉納されます。
神社の境内には市の天然記念物に指定されている大きな欅があります。幹周約5.5メートル、高さ34メートルだそうです。樹齢数百年といいますが、1830年に編まれた「新編武蔵風土記稿」や「江戸名所図会」にすでに「巨木がある」と記載されているところから、江戸は文化文政の頃からすでに巨木だったらしいですから、すごい! 長生き! この附近からは縄文時代中期の土器が発見されているそうで、古代人の住居跡もあるそうです。水がいいところは、大昔から木も人も住みやすかったのでしょうね。
そして深大寺といえば、やっぱり蕎麦でしょう。というわけで、新蕎麦にはちょっとはやかったのですが、門前のバス停の向かいにある「いずみや」さんにおじゃましました。そこで、珍しいものをいただいたのですよ。それは、蕎麦の芽。カイワレ大根にちょっと色がついてる……という感じで、味もそんなような。初めて見ました、食べました。ここのご主人は料理好きだそうで、ときおり箸休めに出してくれる煮物なんかがホントにおいしいんです。お蕎麦もおいしくて、お値段も「安すぎない?」と聞けば、「そおぉ?」というお答え。小さなお店ですが、がつがつ商売してないって感じが好きです(笑) 何代も門前でお蕎麦屋さんをやっている余裕でしょうか。
栖雲寺(甲斐霊場第20番)
天目山栖雲寺は14世紀初頭に中国の天目山で仏教を学んだ業海本浄が1348(貞和4)年に開山したというお寺です。帰国して、この地が中国の天目山に似ているためにここ栖雲寺を開いたのだそうです。かつては武田家の菩提寺として繁栄し、境内の裏にあるお墓所には武田家10代信満の墓もあります。
東京から移り住んだという老婦人がちょうどお寺の雨戸を閉めていました。この辺のお寺さんは全部回ったとのこと、なぜ、このお寺に住んでいらっしゃるかは不明。ちょっと前まで無住だったという話を聞いたことがあるので、管理を任されていらっしゃるのかも。本当にお寺が好きで、話がつきないという感じでした。裏のお墓は文化財になったので屋根をつけたのだそうです。
境内の片隅にある鐘楼に下がる鐘は甲斐五鐘の一つで、1359(延文4)年に武田信武の菩題をとむらうため、長男の信成が寄進したと伝えられています。 ちなみにここは「蕎麦切発祥の地」でもあるそうです。
裏山には急な斜面には巨大な石が重なりあった石庭があります。いや、石庭とはきいていましたが、これが「庭」とは思いませなんだ。業海が水によって土砂を洗い流して築造したといいますが、自然そのまま岩山ですね、これは。広さは2万平方メートルにも及び、県指定の名勝もなっています。岩の間には地蔵や文殊菩薩の磨崖仏があるそうですが、庭園散策というより、ちょっとしたハイキングの覚悟が必要。夕暮れ時で足元が危ないのと体力の限界を感じて、下から眺めるにとどめました(^_^;) 昔は修行僧たちがこの山に登って修行したそうです。
甲州は本当にお寺の多いところですね。信心深いというより、鎌倉時代から非常に文化度が高かったのではないかということをうかがわせます。かつては学問とか識字率というのは信仰としっかり結びついていたと思うし。そういえば、かつては寺子屋をやっていたというお寺さんも多いようです。甲斐の霊場はかつては四国と同じように88だったそうです。1978(昭和53)年に霊場めぐりを設定しようという話が出たときに、鎌倉時代からの古いお寺さんだけでも相当数あって絞るに絞れないこともあり、煩悩の数と一緒の108に決めたのだ、と老婦人からうかがいました。
帰り道、「→八王子」という看板に惑わされて、峠越えを敢行することにしました。夕暮れ時の峠ドライブ……、峠ドライブ……、峠ドライブ……、途中に大菩薩湖なるものを発見。知らなかった、こんなところに湖があるなんて。行けども行けども峠道で日はとっぷりと暮れ始めてきました。うわっ、なんだ! と、道路に飛び出してきたものを見ると小鹿が1頭。また行くと、また1頭。頂上に到達するまえに4頭の鹿に遭遇しました。「神様のお使いというし、なにかいいことあるんじゃないの」と暢気に構えていましたが、頂上に到達すると下りは林道で、未舗装。ガードレールもないみたいだし、自分のヘッドライトだけを頼りに降りるのは……ちょっと危険かも。というわけで、もと来た道を引き返して高速道路で帰還という顛末になりました(-_-;)
池上本門寺「万灯行列」
10月13日は日蓮上人がお亡くなりになられた日で、全国各地でお会式が営まれています。ご命日の法要のようなものですね。日蓮聖人は、1282(弘安5)年9月に身延山から常陸に向かわれ、その途中、武蔵国池上で亡くなられました。61歳だったそうです。この御入滅の霊跡という池上本門寺では、11日から13日まで3日間に渡って盛大なお会式が行われます。長栄山本門寺という名前は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名づけられたものだそうです。
今日の午前中に宗祖御更衣法要というのが営まれ、聖人の御衣を夏物から冬物の御衣にあらためたそうです。午後からの宗祖報恩御逮夜法要には全国から集まった大勢の参詣者や団体参詣が集まられていたとのこと。夕方にはさまざまなお会式の行事の中でも、もっとも賑やかな万灯行列が行われました。だいぶ日が短くなり、すでに夕闇があたりを覆ってきた午後6時、「ゴーン」という鐘楼の鐘の音とともに賑やかな行列が本門寺の山門を入場してきます。ここもまた、すごーい階段があります(-_-;)
法華宗は、お題目を唱えると同時に鉦や団扇太鼓を打ち鳴らすので、本当に「賑やか」という感じですね。最初に登場したのはボーイスカウトなどの子どもたち、そして次に圧倒的に男性の多い集団。低い声のお題目と激しい団扇太鼓と鉦の音で、トランス状態に陥りそうな感じですねぇ そのあとには、纏を振る人たちに続いて太鼓や鉦の人が踊ってたりして、これは法要というか、普通にお祭?(笑)
しかし、日蓮宗の信者さん?信徒さん?はすごく多いんですねぇ。万灯行列は本門寺までの道のり2キロぐらいを練り歩くそうですが、3000人以上の人が参加しているとか。それは全国から集まるんですものね、それでもほんの一部なのでしょう。
行列の人々は参加地域、お寺の名前などが入った提灯を掲げていたり、たすきをしたりしています。確かに北は北海道から……という感じです。そのほかに「立正佼成会」などの提灯を持った人の姿もお見かけしました。そういえば、「霊友会」とか、「創価学会」とかも日蓮宗ですよね。こういう会の人々も参加していらっしゃるのでしょう。そういえば、我が家の菩提寺も日蓮宗だったりしました(^_^;)
日蓮上人が亡くなったとき、大地が震動し晩秋にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられているそうです。そのため、お会式のときは仏前に桜の造花を供える習慣があり、万灯も紙で作った造花で灯明が輝く宝塔を飾っています。宝塔も造花もそれぞれ工夫を凝らして個性豊か。なかなかに美しいものでした。
万灯を先導する纏は、かつて江戸の火消し衆が参拝するときに行っていたものをみんながやるようになったものらしいです。毎年、全国から集まった100基以上の万灯が、深夜まで練り歩くそうですが、さすがに深夜まではつきあいきれないので、そこそこのところで切り上げました(笑)
多くの人で賑わい↑も、↑も、当然のことながら↑も、待機してました。
夜店もいっぱいでていました。本当は買い食いをしたいところだけれど、ひとりだと、そこでお好み焼きの立ち食いをしているのもむなしい(笑) そこで薬研堀の七種唐辛子を買ってきました。三角帽子で塩辛声の唐辛子おじさんは出没していないかなぁと思って歩いてみたのですが、残念ながらいませんでした。やっぱり、もはや伝説なんでしょうか。しょうがないから普通のおじさんの店で買いました(笑) 前にいた中年のご夫妻が長々と説明を求めていて、なかなか私が買えなかったのを見ていたらしいおじさんは、2つ買ったのに、プラス1つをオマケしてくれて、「来年も買いに来てね!」だって。さあ、来年は……、たぶん、行かないと思いますm(_ _)m
景徳院(甲斐霊場第19番)
16歳で自刃というのは、痛ましいなぁ。とはいえ、日本史にはこんな話はいっぱいありますね。昔の人は死ぬのも早かったけど、おとなになるのも早かったのではないでしょうか。いまの16歳と感覚はだいぶ違いそう。主観的には28歳ぐらいだったような感じがします。根拠なし(笑)
このお寺もやっぱり石段! 山門の脇に「近道」という標示がありましたが、とりあえず表通りから上がっていくことにしました。広々した静かな境内です。緑をたたえた小ぶりな庭があり、小さな池に雰囲気があります。静か……ですよね。お留守でございました〜。また御朱印ゲットならず。お寺さんがいらっしゃるときであれば、裏の十六羅漢像もみせてもらえるという話を聞いていたので、ちょっと残念。
境内の奥には勝頼らの位牌や遺品が保存されているという「甲将殿」がひっそりと立ち、その前に3人の墓があります。お墓は中央が勝頼、右に夫人、左が信勝、ほかに家臣や侍女なども一緒に葬られているそうです。敗軍の将としては、まずまずの待遇ですね。とにかく、勝頼っていうのもめっぽう強かったらしいし。
お墓の前を通り過ぎると、入り口にあった「近道」のところに出ます。この先に本当に遺骸を葬ったところらしい「首無地蔵(没頭地蔵)」があると書いてあったので、降りてみることにしました。しかし、「近道」といわれても、木の根、石ころがゴロゴロの幅1メートルもないような曲がりくねった道で……。こういう所に来るのは年配者が多いのではないかと思いますが、近道どころかちょっと苦行の道。いや、命がけの道かも。
降りきるちょっと手前に「没頭地蔵」はありました。これなら、下から登って、すぐ降りて改めて正面の石段をおすすめだなぁ。しかし「首無地蔵」って、すごくリアルな名前で(-_-;) しかも近くにある池は「首洗い池」とか。もうちょっとオブラートに包んでもらえないものかとちょっと思った次第です(笑)
山門の外はせせらぎが聞こえ、休憩所のようなものも設けられていて、ちょっとした自然散策の場所としてよさそうです。血なまぐさい歴史の舞台となった場所なのですが、いまは清涼感が漂う山あいの古寺という雰囲気でした。