川越まつり
川越氷川神社のお祭りへ行ってきました。川越まつりは重要無形民俗文化財に指定されている山車の華やか運行が見もので、年々、人気が高まっているようです。街中が車両通行止めでしたが、人間だけで渋滞するほどの賑わいでした。広い道は両側に露店が立ち並び、お神輿や山車を追いかける人の群れがぞろぞろと移動していきます。今年は川越城築城550年記念と川越市制85周年記念ということで、よりいっそう華やかなのでしょうか?
川越まつりは、川越氷川神社の神幸祭として行われていますが、その華となる山車は29台あるそうです。そのうち、今年、曳かれたのは16台。勢ぞろいするのは10年に1度ぐらいだそうです。16台だって、全部を見るのはなかなか大変です。市役所の前で山車揃いが行われますが、これも全部ではなく半分ずつらしいです。2時から行われるというので行ってみました。そのときは8台が揃っていて、あとから1台到着。ずらりと並んだ山車は壮観です。
山王の山車(高沢町)
鈿女(大手町)
弁慶(志多町)
鏡獅子(新富町二丁目)
重頼(仲原町)
家康(脇田町)
猩々(川越市)
遅れてきたのは「一本柱万度型」の山車でした
1台ずつお囃子と舞を披露し、全部の山車が終わると1台ずつ街へと繰り出して行きます。これらの山車が去ったあと、今度はもう一つの部隊がやってくるのでしょう。その前に、残りの7台を探しに賑わう道へ出かけていきました。
回されている家光発見
獅子は街の舞台と競演
山車の通る通りのところどころに、舞台が設けられていて、ここでもお囃子と舞が行われています。山車が通りかかると、山車の舞台と向き合ってお囃子と舞の競演が行われます。こういうときには山車の舞台がぐるりと回ります。そういえば、道路を直角に曲がるときにも舞台がくるくると回っていました。後ろからついて行っても、ちゃんと舞台を見ることができるんですね!
電線邪魔ですね「道灌」
こんなに大きな山車が動き回るからでしょうか、お祭りの範囲はすごく広くて、7台全部を見つける前に疲労困憊(-_-;) 道路の脇に幾つか設けられている広場のようなところで一休み。したら、歩く元気がなくなった(笑)
夜になると交差点で山車同志が出会い頭にお囃子の競演をするという「曳っかわせ」というのが行われるそうです。山車の喧嘩?(笑) まさか喧嘩ではありませんが、違うテンポのお囃子を負けじと演奏しあい、舞を競うそうです。それを見るために午後遅くなってからも多くの人々がまだまだやってきます。
川越は「小江戸」と呼ばれていますが、幕府の大老や老中が川越城の藩主になっていたので、江戸文化がそのまま引っ越してきたような生活だったそうです。江戸ぶりというのでしょうか、それも明治の終わりごろからは、山車は本家江戸の天下祭りを追い越してしまうほどの隆盛をみせていたそうな。そして、やがて江戸の祭からは山車が姿を消し、神輿一辺倒になっていったため、もっとも豪華な山車が見られるのは川越ということになったようです。
川越へ行ったのは初めてではありませんが、何かの用事でクルマで街を通過しただけ。ゆっくり歩いてみたいなぁという街ではありましたが、なかなかチャンスがありませんでした。今回、ゆっくり歩いてみると、本当に歴史ある建物がたくさん残っていることに気づかされます。お祭なので街中に紅白の幕が張り巡らされ、建物も今日は脇役なので、また、ゆっくり、今度は街並みを楽しみに来てみたいなぁと思いました。お祭りは明日もやってますよ〜。
「縁日ガイド」でも写真を紹介しています。
猿橋
この風景が「奇」なのか、と思いました。確かに怖いくらい迫力があります。でも、「三大」というほどなのかなぁ。引き返しかかると階段のところに「展望台こっち」の標示があります。降りる? 展望台なのに? と思いながらも階段を降りかかって、振り返ると、……これが奇矯だったのだ! 橋桁に屋根がいっぱいついているとでもいうのでしょうか。本当に奇観です。ご存知の方は何をいまさらとおっしゃるでしょうけど、はじめて見ると口があんぐりといった感じです。
帰ってきてから、ちょっと調べてみました。長さ31メートル、幅3.3メートル、谷からの高さが31メートルあり、橋脚がたてられないために両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えているのだそうです。急流や渓谷などでの架橋には橋脚なしで橋を渡す技術が必要で、一般には吊り橋ということになるのですが、江戸時代の日本にはもう一つ、刎橋という形式があったそうです。刎橋は、刎木という太い丸太を斜めに石垣の中に埋め込み、残りを川に突き出させてその上に橋桁を乗せ、橋脚なしで橋を架ける技術。江戸人って、ほんとに創造的なアイデアに富んでいたんですね。
江戸時代にはこのような構造の橋はけっこうあったらしいのですが、当時から猿橋がもっとも有名で、日本三奇橋の一つとされていたそうです。安藤広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などで紹介されているのだとか。ちなみに「三大」のあと二つは「岩国の錦帯橋」「木曽の棧」でした。猿橋は景観の美しさとともに1932(昭和7)年に国の名勝に指定されています。でも、この猿橋、実は1851年(嘉永4)年製の橋の復元。H鋼を使い、岸の基盤をコンクリートで固めて、1984(昭和59)年に架け替えられたそうです。
渓谷の奥に見えるのは東京電力の駒橋発電所で利用した水を下流にある上野原八ツ沢地区の発電所で有効利用するために架けられた水路で、こちらも1997(平成9)年に文化財に登録されています。
花井寺(甲斐霊場22番)
そして、ほうほうのていで辿り着いた花井寺は、お留守でした(-_-;) 洗濯物が干してあったので、無住ではないのは確かでしょう。しかし、呼べど応えず、扉もかたく閉ざされていました。大勢の人が動かない平日にウロウロしているのは、道も空いているし、たまに住職さんのお話をゆっくり聞けることもあるなどのメリットがあるかわりに、こういうリスクとつねに背中合わせになりますね。大げさな!(笑)
水上山花井寺は臨済宗のお寺ですが、山の上にあるのになんで水上山? 本堂は享保年間、18世紀初頭に作られたもので、右手の鐘楼は創建1000年を記念して1986(昭和61)年に建立されたものだそうです。
経堂というのでしょうか、蔵のようなものの中には「紙本墨大般若経」六百巻が納められているという説明の石碑がありました。この寺の寺宝で、山梨県の文化財にもなっているそうです。1228(安貞2)年から230年の年月をかけて書写された貴重な仏典だそうですが、それは住職がいらっしゃったとしてもおいそれとは見せていただけないでしょうねぇ。見てもわからないし(-_-;)
花井寺へ行くまでに、けっこう長い距離、甲州街道(国道20号線)を走りました。けっこう曲がりくねっていて、アップダウンもあり、街道沿いには歴史を感じさせる街並みも見られました。かなりの交通量はありましたが、江戸時代は、ここを人々が歩いたんだなぁとイメージできるような道でもあります。これまでは上のほうを走る中央高速でびゅーんと通過するばかりだったので、ゆっくり走って上野原、大月あたりの街並みを味わった、なかなか楽しいドライブとなりました。ゆっくり走りすぎて、トラックにあおられたりもしましたが……(-_-;) 制限速度ぐらいは出していたんですよ〜。
保福寺(甲斐霊場21番)
甲斐霊場めぐりの21番は、108の中でひとつだけポツンと離れて上野原市にある安寧山保福寺です。上野原市は山梨県で最も東部に位置する街、もっとも東京に近いところにあります。お寺の入り口、山門脇には「萬霊等」と「月見寺」と書かれた大きな石碑があります。萬霊等は高さが3メートルほどあり、県内でも有数の大きさを誇るそうです。
山門には「安寧山」の扁額が掲げられていますが、この書は承天禅師の手によるもの。承天禅師は高輪泉岳寺の僧で、討ち入り後の赤穂四十七士を山内に招き入れたことで有名です。そして、こう言っちゃーなんですが、けっこうどこでも見かける芭蕉の句碑もしっかり並んでいます(笑)
「月見寺」という石碑があるのは、保福寺は別名、月見寺と呼ばれているからです。甲州を舞台にした中里介山の長編「大菩薩峠」の中で「甲州上野原の報(保)福寺、これを月見寺と唱えるのは、月を見る趣が変わっているからです……」と書かれたことに由来するそうな。不勉強で、この小説を読んだことはありませんが(たぶん、一生、読みそうもない(^_^;)
保福寺は1582(天正10)年に武田信玄の重臣で、上野原城主であった加藤景忠が開いた曹洞宗の寺ですが、このお寺が創建された年に武田氏は滅亡し、加藤景忠もそれから1カ月後には武州多摩で討ち死にしたとか。さぞや、無念だったでしょうね。広々とした境内には三途の川に模された川が流れてますが、加藤景忠さんもここを渡ったのでしょうか。本堂の背後には広大な墓苑が開かれていて、お墓所だけで1万坪あるそうです。住職さんが管理やお掃除が大変なんだとおっしゃってました。お墓参りも、お参りというよりは山登り?
創建は16世紀ですが、1751(宝歴元)年に火災で本堂や庫裏などを焼失。ご本尊だけは住職や檀家集の手で救い出され、1756(宝歴5)年に再建されたそうです。それでも350年前。そこで、来春には取り壊して建て直し、新しい本堂が完成するのは2009年の予定だとか。「この建物を見られるのは、いまが最後ですよ」と、住職さん。住職さんやお寺の方が気軽に案内してくださいます。
「えーっ、もったいない」と思わず言ってしまったのですが、建物の老朽化が激しく、ちょっとした地震でも崩壊しかねない状態なのだそうです。取り壊しに関しても、そうとう慎重に、計画的にやらないといつ屋根が崩落するか……と。そういえば、屋根の重さに対して柱がやや細いように感じられました。本堂の前に、新しく建てられる本堂にはミャンマーチークを使いますと書いてありました。
樹齢200年の天然のミャンマーチークは、伐採してからも200年間は風化しないといわれています。チークは、ミャンマー、タイ、インド、カンボジア、 ラオス、ベトナムなど、東南アジア各国に生育していてますが、その中でもミャンマーが質、量ともに世界一といわれています。そこで、なるべく長く保存することが必要とされる仏教寺院などではミャンマーチークが多く使われているそうです。熱帯で雨が多いミャンマーで育ったチークは、高温多湿に強いので、梅雨あり猛暑ありの日本の気候には、ミャンマーチークがぴったりなのだとか。お寺の保存、管理もなかなか大変なんですね。
動物慰霊塔
深大寺の続きになりますが、ここには動物霊園があります。萬霊塔はペットの納骨場所になっているらしいです。数万体が納められているとか。霊園の前には「愛犬○○」などと書かれた幟がたくさんはためいていました。数年前に来たときは、こんなに派手な幟は立っていなかったような気がします。やはり空前のペットブームといわれるだけあって、ペットをちゃんと供養しようという人も増えているのでしょうね。1963(昭和37)年にできたそうですが、除幕式には動物を代表してコリー犬が綱を引いて除幕したそうです。40年も前からあったんだ!
いわゆる葬儀というのでしょうか、納骨には50万円近くかかるような高級仕様もあるようです。お骨ロッカーというのでしょうか、そういうものの使用料が、いちばん高級なものでは年に1万2,000円もかかるのだとか。「も」は、ペットがいなくて、しかも貧乏な私の主観的な「も」かもしれませんね。家族と思っていた方々には、安いと思うのかも。普通コースではじめに2〜3万円程度、あとは管理料が2年で6,500円だそうです。
供養塔は古代ラマ塔をイメージして、三十三法輪を持つ六角形なのだとか。高さは30メートルほどもあり、なかなかの威容です。動物好きの人にとっては、動物霊園とか慰霊塔の存在は常識で、いまごろ「すごく立派なものがあるんだなぁ」なんて感心しているのは不勉強なのでしょうね。私の行ったときも、熱心に祈っていた人がいました。
ペットのお守りや迷子札のようなものがありますが、こういうものにかなり人気が集まるのは、それだけペットを飼っている人が増えているし、大事にしている人も増えているのだろうなということをうかがわせます。