聖火リレー
今日は、聖火が長野を走った日。何ごとかが起こるだろうかと、ついついテレビをつけっ放しにしておりました(笑) 大きな混乱もなく、リレーは終わったようでなによりでございます。
このリレーの前に善光寺さんでは、この一連の騒動でチベットで亡くなった方の法要が営まれたそうですね。スタート地点の辞退といい、善光寺さんもなかなかやるねぇという感じです。
沿道に出て旗を振り回したり、リレーに飛び込んでアピールするような行動もそれなりに意味があるのでしょう。しかし、この善光寺さんのとった行動は、静かな抗議という感じで、最近はイスラームにはまっている私ですが、仏教徒もなかなか捨てたもんじゃないという感じがしました(^_^;)
いろんな主張をする人たちが集まり、声をあげられたことは、まあ、日本では一応、まだ言論は弾圧されていないぞということもわかり、警備は厳重だったのでしょうが、映像を見る限りそれほど物々しさもなく、日本の警察は優秀であるということも証明され(笑)、なかなかいろいろなことを考えさせられる聖火リレーでありました。
この聖火リレーに関しては、オリンピックは政治とは関係ないのだから……などと真顔で言っている人がけっこういるので驚いたこともあります。オリンピックって、スポーツをやっている人々はいざ知らず、政治そのものじゃないですかね?
満福寺(甲斐霊場第68番)
満福寺は、中央道須玉インターを出てすぐなのだけれど、右折して入る道路が狭くて、ついつい行き過ぎ、畑の真ん中の農業用道路をしずしずと戻ってくることになりました。田んぼに水を張る用水のせせらぎは、聞いている分には気持ちがいいけれど、すれすれで走る場合は、必ずしも美しい音には聞こえない!
満福寺に到着すると、ちょっと盛りは過ぎているけれど、桜のトンネルが出迎えてくれました。曹洞宗のお寺ですが、山門はなく、塀の切れ目に突っ込んだから、庫裏の玄関をふさぐかたちになってしまいました。
ちょうど出てきた奥様らしき方に、「すみません、こんにちは〜」と。そこに停めておいてもいいとのことで、クルマを降りると境内には真っ白な藤の花が満開でした。本堂を背景に、手前の真っ赤な桃の花と真っ白い藤棚、見事なコントラストです。
甲斐源氏の祖・新羅三郎義光(から数えて11代目にあたる、武田信武の5男・義武が穴山に住んで穴山四郎と名乗り、この穴山氏の菩提寺として建立されたのが満福寺。武田の傍流ですが、名家なんですね。境内の裏手には、代々の穴山氏のお墓が並んでいました。中でも立派な墓石は、市指定の文化財になっていて、お寺には武田義武改め穴山四郎のお墓だと伝わっているそうです。
お寺の前は広々とした田畑が広がり、ちょうど菜の花が盛り。鳥のさえずりが聞こえてきて、国道が近いにもかかわらず、のどかな雰囲気をかもしだしています。
光照寺(甲斐霊場第67番)
光照寺はなかなか見つからなくて、またしても狭い農業用道路を恐る恐る進むなど、ずいぶん徘徊しました。途中、桃畑の世話をしている人を見つけて道を聞くと、とんでもない方向を教えられました。おっかしいなぁ、ナビはこの辺だと言ってるのだけれど……。
電話番号で検索したのが間違いだったかと、住所で検索しなおし、教えられた方向へ行くことに。さらに道行く人に尋ねながらウロウロした結果、お墓所の工事をしている人を見つけて、聞いてみるとここか光照寺でした。電話番号じゃ間違うはず、このお寺は無住で、管理している寺院の電話番号が記載されていたのでした。でも、そっちにたどり着いても不思議はないはずなのに……。
参道の入口には自然石の大きな万霊塔が立ち、石段となだらかな坂道の参道は桜並木になっています。すでにお花は落ちて、葉桜ですが、咲いていたときはさぞかし美しい桜のトンネルだったのではないかと思われます。
境内は国の重要文化財に指定された薬師堂と宝物殿、石仏などが並んでいて、庫裏も最近までは人が住んでいたのではないかという気配が漂っています。JRの線路が近くて、住宅街の真ん中にある感じですが、ここだけが静寂スポットに入ったように落ち着いた静けさが支配しています。なんだか、居心地のいい境内。 天気のいい日には富士山も見えるそうです。
慈照寺(甲斐霊場第66番)
室町時代、1489(延徳元)年に禅寺として開山。石段の上にたたずんでいる総門に威厳があります。銅版葺きで十二脚二重入母屋造りというのだそうです。こちらは、1639(寛永6)年に建てられたもので、楼上には五百羅漢像が安置されているとか。
本堂も落ち着いた構えで、前庭に「竜王水」という湧き水の小屋がありました。豊かな水量を保ち、かつては地域の水源として利用されてきたそうです。このあたりの地名、「竜王」は、この湧き水が由来になっています。水面はしっかり保護されているので直接に見ることはできませんが、いかにも清らかな水が湧き出てきそうな風情のお寺でした。
このお寺には素人が見ることはできませんが、また、見てもわからないでしょうが、武田氏や徳川氏関連の古文書がたくさん残されており、慈照寺文書として県の文化財)の指定を受けています
天澤寺(甲斐霊場第65番)
第64番の羅漢寺から天澤寺へは、昇仙峡を下って、また別の坂道を登っていくという感じで、また教習所状態かなとブルーになりかけたものの、さほど狭い道ではなく無事に到着。とはいっても、行き過ぎて戻ってくるなどというのは毎度のことです。今回は自分のクルマを使っているので、絶対にぶつけたくないぞ〜と(他人のならいいというわけではありませんが(^_^;) ただ、ナビが比較的、新しいので、ツメは甘いものの反応が早い分だけ助かってます(笑)
天澤寺の門を入る前に、総門の右手に六地蔵幢を発見。「ろくじどう」と読みます。1426(応永33)年に作られたもので、県の文化財指定を受けているお地蔵様が納められている石灯籠のようなもの。笠の下の龕(がん)という部分にお地蔵様が納まっているそうですが、囲いがあって近づけないので、よくは見えません。
天澤寺は、昔、天澤という土地にあったものが1472(文明4)年にいまの場所に引っ越してきたそうです。お寺の名前「天澤寺」だけが、その名残としてあるのですね。お寺の表札といいましょうか、石碑がなかなか立派です。
階段を登って総門をくぐると正面に本堂があります。この本堂は1835(天保6)年に再建されたそうです。土方歳三と同い年だなぁ(^_^;) 新しそうな大きな観音像がありました。庭には 桜や桃が競って花を咲かせ、春らしい風が流れている感じ。
秋にはイチョウの大木が境内を彩るのだとか。庫裏からは赤ちゃんの泣き声や子どもの声が聞こえていて、のどかな雰囲気を感じます。そういうのは、あまりお寺的ではないのかもしれないけど。