妙法寺(甲斐霊場第91番)
そろそろ妙法寺かなというあたり、つまりナビから目的地付近で案内を終了するという通達があったころ(笑)、道路が大きな門がかかっているのが見えました。しかも、その先はタジッとするような上り坂です。あれが、蓮華寺の山門かな……。門をくぐって急坂を登って行ってもお寺らしきものは見えません。両脇には歴史を感じさせる建物がちらほらと。このあたりは、かつては妙法寺の門前町として参拝者でにぎわっていたようです。
と、正面にドーンと立派な山門が立ちはだかりました。その山門の背後がすべて寺域のよう。妙法寺はいまも山の斜面を独占しているような大きなお寺です。山門は山梨県では身延山に次ぐ大きなものだそうです。急な石段を迂回して、失礼ながらクルマでどんどん上っていくと道の両側に淡い色に咲く紫陽花がたくさん待ち受けていました。
クルマを降りるとこじんまりした堂があり、これが本堂だと思って参拝したら、客殿でした。本堂はその奥、かなり急な階段を登った上に大きな境内が開けています。鐘楼もここに。うっかり、本堂を参拝しそこなって帰るところでした(^_^;)
妙法寺は、いまから1300年ほど前に役行者によって開かれたと伝えられています。当時は真言宗のお寺だったものが、1274(文永11)年に日蓮に帰依したとのこと。日蓮聖人直伝という護符が伝えられていて、「小室の毒消し秘妙符」として知られています。お寺の裏にある井戸水でしたためられる護符で、井戸は天竺と底で通じていると伝えられているそうな。けっこう、全国にあるようですね、地下道伝説。明治時代にはこの秘妙符が大変な人気を博していたそうです。
もう終りかけてはいますが、客殿の裏の山、経堂のあるあたりから、本堂の裏や脇の山は紫陽花がさまざまな色合いで咲き競っています。1万株も植えられているそうです。6月になると紫陽花見物をかねた参拝者がたくさんやってくるとか。
紫陽花は年々成長して花も大きくなっているということで、知る人ぞ知る新名所になってきているようですね。ちょっと遅くはありましたが、遭難しない程度に裏山に登って、最後の一花を咲かそうとしている?紫陽花を楽しませてもらいました。
最勝寺(甲斐霊場第90番)
歴史は古く、749(天平20)年に奈良西大寺の忍正が開いたとのこと。その頃、行基がこの地を訪れて観音像を彫り、「その功徳、最勝なり」としたところから最勝寺という名前がついたともいわれています。このあたりも寺の功徳にちなんで最勝寺地区と呼ばれるようになったそうです。
武田滅亡のとき、1582(天正10)年に織田軍によって焼き討ちされたのですが、観音堂だけは焼け残り、さらに1646(正保3)年に火災にあったときもこの観音堂だけは残ったそうです。やっぱり、徳が高かったのでしょうか。二度も難を免れた観音堂は、室町時代の形態を残す、桃山の頃の築造と推定されています。また、ご本尊の聖観音像は鎌倉初期のものだそうです。
それだけ由緒正しく、徳も高いようなお寺ですが、最勝寺には檀家が6軒しかなく、それも、もうご近所にはいないということで、寂れかけていたようです。そこで、最勝寺地区の有志が1964(昭和39)年に保存会を作り、寄付を募ってお寺への修復や管理などをはじめたそうです。ちょっと、いい話です。
御朱印をお願いした方が、少し手が不自由で、自分で押してくださいと判を渡されました。そして、「これをそこに、これを次に」と一所懸命に説明してくださいます。ご教授を受けて、自分で製作した御朱印。ちょっと曲がってしまいましたが……。
昌福寺(甲斐霊場第89番)
昌福寺の山号は「寿命山」。ありそうでなさそうな名前で、考えてみればなんだかすごい名前のような気もします(^_^;) このお寺は第91番の妙法寺の住職だった日伝の弟、日全によって1298(永仁6)年に開かれたとされています。言い伝えによると、かつてこの地にいた悪霊を、通りかかった日蓮上人が法華経で追い払ったことに人々が感謝し、日蓮宗に帰依して日全を住持に迎えたともいわれます。
別名「虫切り寺」と呼ばれますが、霊元上皇が重い病いにかかったとき、このお寺の12代住職が京都の御所に参内して加持を行ったところ全快したため、上皇から「経王祈祷所」の勅願を与えられたのがその始まりとか。この「虫切り加持・護符の秘法」が昌福寺に伝えられたそうです。いまでは子どもの成長を願う行事として「虫切り加持」が残されています。
御朱印をいただきにいくと、小さな男の子を連れたお腹の大きな若奥さんらしき方が対応してくださり、御朱印と一緒に「虫切りクッキー」というのをくださいました。ま、普通のクッキーですけど(笑) 子どものためのイベントなども行われているそうで、子どもに親しみのあるお寺なのかもしれません。
日蓮宗総本山身延山久遠寺の第81世法主にもなった石橋湛山の父親がこのお寺の住職をしていたことがあったため、湛山はここで幼少時代を過ごしたそうです。湛山は東京生まれですが、父は増穂町出身。このお寺にも湛山の書簡など、ゆかりのあるものが数多く残されているようです。
ネバネバご飯
その1はモロヘイヤの中華風スープ。ただ鶏がらスープを使っただけですが、ネバネバが中華風な感じということで(^_^;) そして、万能ネギとじゃこ、梅干を刻み込んだ納豆。長芋の千切りにちょっと茹でたオクラの混ぜ物。めかぶ。
栄養的にはどうだかわかりませんが、「どうだ、参ったか!」というくらいネバネバです(笑) こんなことしていないで、盛大に肉料理でも食べたほうがスタミナはつくかもしれませんね。贅肉もつくかもしれないけれど。
あ、丑の日にはうなぎかな? しかし、300年近くも前のキャッチコピーがいまでも生きているってすごいですよね。糸井重里も平賀源内にはかなわない(笑) 今年の丑の日は7月24日と8月5日の2日あるそうですが、中国産のうなぎの売れ行きはいかに? という感じですね。日本産の1/3ぐらいの値段のようで……。
法善寺(甲斐霊場第88番)
久しぶりに敷地の広大な、立派なお寺に遭遇しました。加賀美山法善寺は甲斐源氏の加賀美一族の祖、加賀美遠光の館だったところ。甲斐の真言寺院を代表するものの一つです。白い土塀に囲まれて、本堂をはじめ、威厳のある古代建築の鐘楼、地蔵堂、正一位というやけに位の高い稲荷大明神などの建物が散在しています。
法善寺は、806(大同元)年(に創建されたときは永禅寺という名前で法相宗のお寺だったそうです。その後、住職の神徳が空海から法を授けられ、真言宗に改宗したのだとか。長い歴史の中で衰退してしまったのですが、このあたりの領主だった加賀美遠光によって再興され、孫の遠経が遠光の館の地に移築したものが現在の法善寺。
武田家の祈願所として守られ、とくに信玄から大事にされていました。智証大師自画といわれる不動明王画像がこの寺にあり、信玄が篤く帰依していたそうです。その像はのちに高野山に贈られたのですが、その代わりといってはナンですが、ここには高さ8メートルもあるという不動明王像があります。
変わっているのが、不動明王堂の建物。ステンレス製で、形も近代的なので、最初は信徒会館か何かだろうと思って通り過ぎてしまいました(^_^;) 1995(平成7)年に建立されたものです。よくよくみると「不動明王堂」と書いてあったので、行ってみました。ガラスのドアに、開けて入っていいですよと書いてあったので、そっと開けてみると、中にドーンと大きなお不動さまがいらっしゃったのです。
大きな不動明王像は樹齢千年のアガチスという南方系木材を使った寄木作りで、木製の不動明王像としては国内最大級のものだとか。その胎内に地球環境保全の祈願文が置かれているというところが、建物同様、「いまっぽい」です。
不動明王堂の裏手にある住職のお住まいらしきところを訪ねると、テレビの音がガンガン響いているのですが……。「ごめんくださーい」と呼べど叫べど無反応(笑) 駐車場でクルマの改造をしていた若者に尋ねると、「かなり高齢だから……」とのこと。ついに私の叫びはお耳に届かず、ご朱印はあきらめました。