ある小説の中に、世界を旅して「何を祀ってあるのかわからないんだけど、地元の人が拝んでいるものには手を合わせることににました。そうしたら、なぜか商売がうまくいくようになったんですよ」というフレーズがありました。SFだし、本筋とはまったく関係ないんだけど、心に残った一節です。そんなわけで(どんなわけで?)、日々の何気ないできごとを綴ってみようかと思います。
2009/05/24  (日) 

縁切榎

板橋を渡ったら、すたすたと歩いて、縁切榎まで行ってみましょう。すごい名前がついているなという感じですが、この木の下を花嫁行列が通ると必ず不縁になる、幹の皮を相手に飲ませると離縁できるなど言われていた縁起が悪いんだか、ありがたいんだかよくわからない榎です(笑) ストーカーまがいの相手がいたら、枝ごと投げつけてやりたいくらいでしょうから(^_^;)
 
皇女和宮が家茂の嫁になるために通りかかったときは、この榎を避けて通ったとか、菰を被せて榎を隠したといわれているそうですが、結局のところ、早々と死別することになっちゃいましたね。この榎のせいだったのかしら?(笑) 和宮は上宿の脇本陣跡に宿泊したそうです。
 
江戸時代は、制度的には夫のほうから縁を切るのはたやすいものの、妻のほうから縁を切るのは非常に困難だったようですね。縁切寺や駆込寺などという異名をもつお寺さんがけっこうあるのは、女性が苦労して逃げ出してきたからなのでしょうか。いまでは双方から離婚の申し立てをすることができますが、やはりシェルターなどに駆け込むのは圧倒的に女性。ストーカー被害もほとんどが女性が被害者のような。いまも昔も、男はしつこいってことかしら?(^_^;)
 



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2009/05/23  (土) 

板橋

上宿あたりには「板橋」があります。往時は文字通り、板の橋。旧中山道が石神井川を渡る地点にかけられた橋で。とはいえ、実際はコンクリートの橋。板に見えるようにお化粧されています。欄干が木目模様で、昔はこんな橋だったのかなぁと思わせるように。何回も架け替えられていますが、現在のものは長さ32.3メートル、幅7.5メートルで、1942(昭和47)年に完成したものだそうです。この「板橋」は平安時代にもすであったそうで、同じ場所ではなさそうですが板橋の地名のもとになっているとか。
 
橋桁には道標が立っていて、「距日本橋二里二十五町三十三間」「日本橋から十粁六百四十二米」と書かれています。う〜む、わかりにくい。10キロメートル&642メートル。1里は4キロ弱で、1町は100メートル強、なるほど換算すればそのくらいですね。私たちも歩いてきたんだ、10,642キロ! でも、3日もかかったとか(^_^;) 土のあまり見えない都会の道の中で、このあたりだけは石神井川沿いの緑にほっとひと息つくことができます。
 
この橋の解説板は、宿場にもあったという高札場を模して立てられているようです。そこには「江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2メートル)、幅3間(5.4メートル)ありまいた。少なくとも1798(寛政10)年と天保年間に2度修復が行われたことがわかっています。その後1920(大正9)年に新しい橋に架けかえられ、1932(昭和7)年にコンクリートの橋に架けかえられました」というようなことが書かれています。
 



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2009/05/22  (金) 

板橋宿

東光寺の辺りからは、旧中山道が2キロほど続いています。といっても、いまでは普通に商店街という感じで、とくに宿場町の面影があるわけではありません。板橋宿は中山道最初の宿駅。東海道でいえば品川宿という感じでしょうか。江戸から出て行く人が泊まる距離ではなかったでしょうね。江戸に入る人は宿泊したのかも。
 
宿場町は、江戸側から平尾宿、中宿、上宿の3宿が連なって板橋の宿が構成されていて、中宿に本陣1軒、平尾宿、中宿、上宿に脇本陣が各1軒あったそうですが、いまは何も残っていません。本陣跡はスーパーマーケットになっており、脇本陣の跡は酒屋さんだったりします。平尾宿には遊女を置く旅籠も多く、ここで暮らした遊女たちのお墓が文殊院に残されています。
 
板橋宿のさまざまな資料はや古文書は、郷土資料館に集められているとのこと。今回は行ってみませんでしたが、機会があれば見てみたいものです。真新しい石碑が立っていて、「ここがそうだったんだよ」と合図されている場所もありますが、まったく面影はゼロで、位置確認だけですね。都市部ですし、地震や空襲で被害も受けたのだろうと思います。何か残しておけというのも無理な話かもしれません。
 



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2009/05/21  (木) 

東光寺&観明寺

庚申塚からいったん国道17号線に出て、この広い道を渡ると、また旧中山道を歩けることになります。この道の入口近くにあるお寺が東光寺。道に面しているわけではないので、ちょうど荷下ろし中の酒屋さんに場所を聞きました。「観明寺なら隣だけど、東光寺は手前を左に。法事ですか?」と逆に聞かれてしまいました。法事って格好はしていませんでしょ、私たち(笑) 丁寧に道を教えてくださったばかりではなく、観明寺の所在までわかって、たいへん助かりました。
 
東光寺という名前のお寺はけっこう多いような気がします。「東光」は東方浄瑠璃世界を意味するそうですね。板橋の東光寺は浄土宗丹船山薬王樹院東光寺というのが正式名称でした。江戸時代には境内も広く、門前町もにぎわっていたそうですが、いまはひっそりとしたフツーのお寺の感じです。1719(享保4)年に建立された平尾追分地蔵、本名「六道利生の地蔵尊」、1662(寛文2)年建立の青面金剛像を刻んだ「庚申塔」、そして、宇喜多秀家の供養塔などがあるそうです。ん、豊臣方? 関ヶ原で負けてから八丈島に流され、それでも1665(明暦元)年83歳まで生きたそうです。供養塔は明治になってから子孫が建立したものだとか。そのどれもに説明板も、「これだよ!」という表示もありません。どれがどれやら……。その道の造詣が深い人でなければ発見できないこと請け合いです(笑)
 
観明寺は通りに面していて、参道入口にある庚申塔には、ちゃんと表示がありました。1661(寛文元)年に建立されたもので、青画金剛像が彫られたものとしては、都内最古とか。板橋区の指定有形文化財になっています。東光寺の庚申塔より1年ほど「勝った!」という感じでしょうか(^_^;) 正式名称は真言宗豊山派如意山観明寺。境内には鳥居もあり、長の歴史を感じさせます。出世不動だそうです。ちゃんとお願いしておかなくちゃ(笑)
 



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2009/05/20  (水) 

近藤勇の墓

流山で捕まって、板橋で処刑されたという近藤勇のお墓が、板橋駅東口にありました。ここが処刑場だったというわけではないようですが、戊辰戦争を生き延びた永倉新八によって建立されたお墓です。近藤勇と土方歳三の双方のお墓となっていますが、もちろん遺骸が埋まっているわけではありませんから、慰霊碑という感じでしょうか。側面には100名を超える新選組隊士の名前も刻まれています。1876(明治9)年に建立されたものだそうです。
 
土方さんのお墓も多摩や函館など複数ありますが、近藤さんのほうも会津や多摩をはじめ、米沢や岡崎などにもあるようです。なにせ、亡くなったときには天下の大悪人ですから、周りの人はみんなこっそり葬り、はっきりした記録も残せなかったのでしょう。あちこち行かなきゃならないから、お墓参りも忙しいです(^_^;)
 
高さ4メートル弱の立派なお墓の横には、最初に遺体が埋められたところに置いた石というのがあります。かつて刑場跡から少し離れたところに無縁仏をまつる塚があり、最初はここに埋葬されたとされているようなので、そこにあった石でしょうか。娘婿の近藤勇五郎が役人を抱きこんで、首のない遺骸を掘り起こし、多摩の龍源寺に埋葬したという話が伝えられていますが、これも本当かどうかはわからないそうですね。掘り起こして調べてみればいいのにね? 不謹慎かなぁ(-_-;)
 
局長と副長のお墓の隣には、このお墓を立てた永倉新八さんのお墓もあります。こちらは1929(昭和4)年に建てられたそうですが、こっちのほうが立派? ここには新八さんの遺骨が分骨されているとか。

 
中山道を歩く企画で、新選組ウォッチングのリストが一つクリアしました(^_^;) 京都、甲府、宇都宮、会津、函館、もちろん多摩とめぐりめぐって、今度は流山に行ってみたいですね。あと、本徳寺にも。遠いところは何度も行っていたりするのに、近いところほどなかなか行くチャンスがありません。「ついで」を探しているといつまでたっても行けそうもないので、今度は流山を目指したいと思います。
 



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庚申塚
涼しいというよりは寒い!