一里塚
幕府から日本橋を起点として全国の街道に一里塚を設置するよう指令が出されたのは1604(慶長9)年と言いますから、江戸時代初期。家康がやっと江戸に落ち着いて、安定政権を作ろうかなぁという頃ですね。指揮官は、大久保長安だそうです。この方、ほんとにいろいろなことをやってますねぇ。江戸時代がそんなに長く続くと予想していたがどうかはわかりませんが、全国一斉一里塚設置プロジェクトは10年ほどで完了したそうです。
一里塚はこんもりした盛り土ですが、たいていは榎などの木が植えられてます。旅人が、よっこらしょと木陰に入って弁当をつかうなんて風景が浮かびます。植えられている木は、全国ほとんどが榎です。うっそうとした葉が、木陰を作りやすかったからでしょうか。たまに松もあるようですが、これは枝ぶりを楽しんだ?(笑) ここ、志村坂上にある一里塚の榎は3代目だそうです。1922(大正11)年に国の史跡に指定されています。
それにしてもびゅんびゅんクルマが行き交う国道の脇。何度も道路拡張だの、道路整備だのがあったことと思います。よくぞ残してくれましたっていう感じです。どの街道でも、現存している一里塚は少ないようですから。これまで通過した一里塚は、残ってはいませんが白山あたりが一里目、庚申塚あたりが二里目、そして、この志村坂上が三里目ということになります。中山道は京都までは132里ほどあるそうで、まだ2%ぐらいですね。トホホ。一生、たどりつかないかも(-_-;)
縁切榎
皇女和宮が家茂の嫁になるために通りかかったときは、この榎を避けて通ったとか、菰を被せて榎を隠したといわれているそうですが、結局のところ、早々と死別することになっちゃいましたね。この榎のせいだったのかしら?(笑) 和宮は上宿の脇本陣跡に宿泊したそうです。
江戸時代は、制度的には夫のほうから縁を切るのはたやすいものの、妻のほうから縁を切るのは非常に困難だったようですね。縁切寺や駆込寺などという異名をもつお寺さんがけっこうあるのは、女性が苦労して逃げ出してきたからなのでしょうか。いまでは双方から離婚の申し立てをすることができますが、やはりシェルターなどに駆け込むのは圧倒的に女性。ストーカー被害もほとんどが女性が被害者のような。いまも昔も、男はしつこいってことかしら?(^_^;)
板橋
橋桁には道標が立っていて、「距日本橋二里二十五町三十三間」「日本橋から十粁六百四十二米」と書かれています。う〜む、わかりにくい。10キロメートル&642メートル。1里は4キロ弱で、1町は100メートル強、なるほど換算すればそのくらいですね。私たちも歩いてきたんだ、10,642キロ! でも、3日もかかったとか(^_^;) 土のあまり見えない都会の道の中で、このあたりだけは石神井川沿いの緑にほっとひと息つくことができます。
この橋の解説板は、宿場にもあったという高札場を模して立てられているようです。そこには「江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2メートル)、幅3間(5.4メートル)ありまいた。少なくとも1798(寛政10)年と天保年間に2度修復が行われたことがわかっています。その後1920(大正9)年に新しい橋に架けかえられ、1932(昭和7)年にコンクリートの橋に架けかえられました」というようなことが書かれています。
板橋宿
宿場町は、江戸側から平尾宿、中宿、上宿の3宿が連なって板橋の宿が構成されていて、中宿に本陣1軒、平尾宿、中宿、上宿に脇本陣が各1軒あったそうですが、いまは何も残っていません。本陣跡はスーパーマーケットになっており、脇本陣の跡は酒屋さんだったりします。平尾宿には遊女を置く旅籠も多く、ここで暮らした遊女たちのお墓が文殊院に残されています。
板橋宿のさまざまな資料はや古文書は、郷土資料館に集められているとのこと。今回は行ってみませんでしたが、機会があれば見てみたいものです。真新しい石碑が立っていて、「ここがそうだったんだよ」と合図されている場所もありますが、まったく面影はゼロで、位置確認だけですね。都市部ですし、地震や空襲で被害も受けたのだろうと思います。何か残しておけというのも無理な話かもしれません。
東光寺&観明寺
庚申塚からいったん国道17号線に出て、この広い道を渡ると、また旧中山道を歩けることになります。この道の入口近くにあるお寺が東光寺。道に面しているわけではないので、ちょうど荷下ろし中の酒屋さんに場所を聞きました。「観明寺なら隣だけど、東光寺は手前を左に。法事ですか?」と逆に聞かれてしまいました。法事って格好はしていませんでしょ、私たち(笑) 丁寧に道を教えてくださったばかりではなく、観明寺の所在までわかって、たいへん助かりました。
東光寺という名前のお寺はけっこう多いような気がします。「東光」は東方浄瑠璃世界を意味するそうですね。板橋の東光寺は浄土宗丹船山薬王樹院東光寺というのが正式名称でした。江戸時代には境内も広く、門前町もにぎわっていたそうですが、いまはひっそりとしたフツーのお寺の感じです。1719(享保4)年に建立された平尾追分地蔵、本名「六道利生の地蔵尊」、1662(寛文2)年建立の青面金剛像を刻んだ「庚申塔」、そして、宇喜多秀家の供養塔などがあるそうです。ん、豊臣方? 関ヶ原で負けてから八丈島に流され、それでも1665(明暦元)年83歳まで生きたそうです。供養塔は明治になってから子孫が建立したものだとか。そのどれもに説明板も、「これだよ!」という表示もありません。どれがどれやら……。その道の造詣が深い人でなければ発見できないこと請け合いです(笑)
観明寺は通りに面していて、参道入口にある庚申塔には、ちゃんと表示がありました。1661(寛文元)年に建立されたもので、青画金剛像が彫られたものとしては、都内最古とか。板橋区の指定有形文化財になっています。東光寺の庚申塔より1年ほど「勝った!」という感じでしょうか(^_^;) 正式名称は真言宗豊山派如意山観明寺。境内には鳥居もあり、長の歴史を感じさせます。出世不動だそうです。ちゃんとお願いしておかなくちゃ(笑)