世田谷代官屋敷跡
世田谷ミニツアーの最後は、腹ごなしに代官屋敷跡へ。地図も見ないで細い路地を突っ切ったら代官屋敷跡の前に出たという快挙です。東京にこのような代官屋敷が残っているのは珍しいのだそうです。母屋、表門とともに国の重要文化財に指定されていました。世田谷15ヵ村は、1633(寛永10)年から彦根藩井伊家の井伊直孝が支配することになり、井伊家の代官として大場氏が代々世襲したものだとか。母屋は1737(元文2)年に築造された物に改修を加えたもので、表門はこの年に築造されたものが残っているようです。
代官所屋敷とはいっても豪農か庄屋のようですね。まあ、当時、世田谷はけっこうな田舎だったと思われますから、そんなものなのでしょう。片隅に白州通用門というのがありました。白州? 罪人の通る門ということでしゅね。その先にお白州の跡がちゃんと残っていました。白州といえば、だだっ広い白砂で、目の前にデンとお侍さんが怖い顔で何人も並んでいる……と思うのは時代劇に影響されすぎで、案外、こじんまりしたものでした。
それはそうですよね。大岡越前が裁くのは、いってみれば最高裁判所で、すべての罪人がここへ引っ立てられたら、忙しくてしょうがない(笑) こちらは地方裁判所か家庭裁判所という感じで、地域の犯罪を裁いていたのでしょう。敷地内にある世田谷区立郷土資料館とともに入場無料。屋敷の庭の散歩も静かでいい雰囲気です。今回は時間の都合もあり資料館には立ち寄りませんでしたが、入口前には当時の世田谷を伝える石碑なども立ち並んでいて、なかなかおもしろそうです。機会があったら、また立ち寄ってみましょう。
上海家庭料理
世田谷「散歩」と言いつつ、歩くというよりはやっぱり食べるほうへ向いますね(笑) 幼なじみは、使い慣れないパソコンと格闘して、いろいろと「食べる情報」を調べてきていました。しかも、まだプリンターにつなげないとかぼやきながら、びっしりとメモで。「プリンターを買った!」と騒いでいたのはいつのことだったか……。はやく、繋ぎなさい!(笑) そんなメモを見ながら、上海家庭料理「大吉」というお店へ。近所に大吉寺という寺院があり、お店の名前はそこからかな、と思えます。
私は知らなかったのですが、この辺がテレビで紹介され、この店も入っていたらしく、やっぱり行列……。と言っても、2組目だったので、とりあえず待ってみることにしました。前の組が呼ばれて、後には列はなく、ぽつんと待つこと……けっこう長かったのです。はぁ〜。やっと呼ばれてカウンター席へ。「卓が空いたら、そちらへ移っていいですよ」なんて言われたのに、一品目の料理がきた頃、ちらっと外を見るとなんだか長蛇の列ができていました。これを運がよかったというべきか、悪かったというべきか……(笑)
名物は酢豚だとか。私はタマネギが苦手なので、酢豚は……と尻込みしたのですが、タマネギは入っていないとのこと。頼んでみると、タマネギどころか野菜はなしで、豚のみが黒酢にからまり、濃厚な酢豚が登場しました。さっぱりとした白髪ネギとのバランスがよくておいしいのですが、熱した酢って……コホッ、コホッと。むせてしまいますよねぇ。ワンタンはとてもおいしかった! 青菜は普通に空芯采で、チャーハンはもう少しパラパラっとしていてほしかったかな(^_^;)
そして、大根餅。これは、かなりおしいかったほうです。表面はかりっと、中はしっとりという感じで。でも、タレはなくて、そちらにこだわりはないようでした。私には大根もち趣味があり(笑)、メニューにあるところでは必ず注文して味比べをしてしまいます。友人は、これまで大根餅を食べたことがなく、おろし大根で食べる「からみ餅」のようなものをそうぞうしていたそうです。初めての体験は、かなり気に入ったようで、大根餅ファンクラブに入会するそうです(笑)
肉まん!
行列といっても十数人だし、売店で購入するだけなので、まあ、たいしたことはないだろうと列の後につくことにしました。しかし、なかなか進まないのです。やっと自分の番が来てみると、売っているのは肉まんだけではなく、万頭などいくつかの種類があり、みんな、あれもこれもと悩んでいるわけですね(笑) だから、なかなか進まない……。
私は肉まんのみの購入だったのですが、今度は、生産が間に合わないというわけで、番号札を持たされて、またしばし待機。やっと手に入った熱々の肉まんは、当然、すぐに歩き食いです。行儀が悪いったらありゃしない(笑) 二つに割ると、肉汁がじゅわーっと出てきて、いかにもおいしそうです。人が並んでまで手に入れようというものは、それなりの価値はある? おいしい肉まんでした。好みからいうと、あんまり肉々しているより、野菜が存在感を主張しているほうがいいのですが……。
豪徳寺/世田谷城址公園
豪徳寺へは、以前、「招き猫発祥の寺」と聞いて、見に行ったことがありました。「招き猫」に関しては、本家VS元祖みたいなところがいくつかあり、諸説あるようですが、豪徳寺も名乗りを上げているお寺の一つです。このお寺の付近は、中世の吉良氏が居城としていた世田谷城の主要部だったとのことです。世田谷城は、1366(貞治5)年に世田谷郷を与えられた吉良治家が14世紀末から15世紀初頭の応永年間に整備した居城とか。往時は豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたといわれます。1590(天正18)年に豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたとき、北条氏と親戚関係にあった吉良氏も共に滅び、廃城となったそうです。
そうだったのか、世田谷城! という感じで駅前の地図を見ると、豪徳寺のすぐ裏手に世田谷城址公園がありました。お城というと、どうしても江戸時代のでっかい城郭を思い浮かべてしまい、世田谷なんていう大田舎にお城があったなんて、信じられない!と思ってしまうのですが、戦国時代には、確かに多摩方面にもいろいろなお城、まあ、小さなお城でしょうが、北条氏支配あるいは提携みたいなお城がけっこうあったようですね。八王子城とか……。世田谷城址公園の中には、空堀や土塁が現存しています。
いま見られる石垣は公園整備のために改めて築かれたもので、元の石垣は江戸城築城の際に持ち出されたそうです。そういえば、五稜郭だって解体されて開拓庁かなにかになったのですものねぇ。むかしは、きっちりリサイクルされていたのです(笑) 1940(昭和15)年に開園した世田谷城址公園は、「歴史公園」という位置づけで東京都指定文化財にもなっています。むかしの面影を残す丘や谷が残り、樹木が生い茂る自然が身近に感じられる公園で、世田谷百景にも選ばれています。
豪徳寺は、江戸時代になって彦根藩主井伊家の菩提寺になり、「桜門外ノ変」で斬殺された井伊直弼のお墓があります。ほかにも彦根藩ゆかりの方々の立派な墓石がずらりと並び、とても広い墓所は、お墓公園とでもいえそうなたたずまいです。このあたりは時代が層になっていて、しかも吉良は吉良で江戸時代にも有名人を輩出しているので(^_^;)、頭がごっちゃごちゃになりそうです。いや、なってます(>_<) 映画「桜田門外ノ変」は、ついに見損なっちゃったのですが、セットがすごいという話で、見たかったなぁ〜、とか。
世田谷散歩/勝光院
ストレスが溜まる一方の幼なじみから突然、電話がかかってきて、「世田谷を歩かない?」と。なんで世田谷? 実は私たちは、あの玉電の沿線の学び舎で机を並べていたのでした。懐かしいといえば、懐かしい……。とはいえ、思い出といえば、寄り道禁止の巡回をしている教師の目を盗んでラーメンを食べたり、ソフトクリームを食べたり、そんなことばかりです(笑) 豪徳寺の商店街も様変わりしてます。駅がずいぶん変りましたからねぇ。玉電もおしゃれな外装になりました。懐かしのラーメン屋さんがあったのですが、移動して改装したのではないかと。記憶にある場所よりだいぶ北に移動している感じです。
そういうわけで食べ物にしか記憶のない私たちは、地図を見て、勝光院へ行ってみることに。学校から徒歩5分ぐらいだと思うのですが、存在すら知りませんでした(^_^;) 勝光院は、1335(建武2)年(1335)に開山、世田谷城主吉良治家が開基となったお寺で、1573(天正元)年、吉良氏朝が父頼康の院号(勝光院殿脱山浄森大居士)から興善山勝光院と改称したそうです。立派な竹林があり、なかなか風情のあるたたずまい。世田谷城にあった千手院の本尊千手観音が、本堂に安置されているそうですが、この日は扉が閉ざされていました。
このお寺のお墓所には吉良氏代々の墓が並んでいます。吉良氏は三河国吉良荘より起こった清和源氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流だそうです。14世紀後半、治家の代に世田谷に居館を構えたと伝えられ、室町・戦国時代は、足利氏一族として世田谷地域を支配していたそうな。江戸時代になって関東が徳川の支配下に入ると所領は移されたものの、幕末まで旗本として存続し、勝光院はずっと吉良氏の菩提寺としてある続け、お墓所には28基の墓石と、いくつもの墓塔があります。
吉良といっても上野介とは関係なさそうですが。このお墓所に山茶花がかわいらしい花をつけていました。私は一瞬、「椿?」といったら、友は「花びらが落ちてるから山茶花でしょう」と言ったあと、「椿はまずいでしょう、吉良だけに」と付け加えました。それが妙におかしくて、「吉良だけに椿はまずいよねぇ」と私はひとりで笑い転げておりました。どうってことはないひと言ですが、これがツボにはまるってやつでしょうか(笑)
世田谷にある梵鐘としては、2番目に古いという立派な梵鐘もあります。1698(元禄11)年、に作られたものだそうです。アジア・太平洋戦争のときに供出されたそうですが、奇跡的につぶされることもなく、しばらくの間、葛飾区東金町の金蓮院に置かれ、1927(昭和52)年に返還されたのだとか。かなり強運な鐘かもしれません。叩くなり、なでるなりしておけば、好運がもたらされる……なんてことは、どこにも書いてありませんでした(笑)