飯舘村
除染が終わっているという津島中学校に立ち寄りました。校庭には、たくさんの黒い包みが山積みになっていました。これ、除染した土とか砂の袋ですね。集めてはみたものの、行き場がなくて、校庭を占領しているようです。そういえば、テレビの報道などでみたことがあるような。除染したのだったら、もう少し低い数字が出るかなと思って線量計を見ると、地上1メートルあたりで、5.68μSv/hという数値をしめしていました。
あちこちに立ち寄りながら、全村避難になっている飯舘村に到着しました。立ち入り禁止にはなっていません。いちばん線量が高いといわれている長泥地区にある公式計量ポストのそばで、幅はありますが0.43〜0.89μSv/h。「低いじゃん!」と思って、数メートル離れると急に2.16μSv/hを計測しました。えっ!? どうやら、公式計量器の近くは除染しているのだとか。意味がないような……。住民が、数値が高く出ることに腹を立てて、近くの土を勝手に掘り返して畑に捨てたという話もあるそうです。
この辺りは、数日前に降った雪がたっぷり残っていて、角の家の雨樋からは水が滴り落ちています。「ああいうところが一番高いから、試しに計ってごらん」と言われて、線量計をかざすと、92.95μSv/hありました。私が見た最高記録です。「うひゃ!」という感じ。放射性物質は目には見えませんが、風に乗って浮遊しているので、ちょっと場所を変えたり、同じ場所でも5分も立っているとどんどん数値が変わります。この振れ幅も大きくて、ときには「機器が壊れたか?」とまで思うほど。この日、使っていた線量計は、かなり年季は入っているように見えますが、数値はだいたいのところ正しく示すようです。屋根から水を集めて流れる樋の出口や、側溝などはやはり高い数字をたたき出します。
写真を撮ったり、線量計を振り回していると、不審尋問にあいました(-_-;) 怖い顔をして近寄ってきたのは「飯舘村見守り隊!」の方々。村民が避難して誰もいないのをいいことに、空き巣がたくさん発生しているという話は、テレビでも聞いていました。自衛団が結成された話も。それがこの方々だったのですね。こういうパトロール隊の方々は浪江町などでも随所で見かけました。そういうパトロールが必要なもともとの理由、ガラスが破られて空き巣にあったらしき家々もかなりたくさん見かけました。
日本人は、震災の混乱の中でも盗みもしなければ、暴動も起こさない、秩序を守って行動すると諸外国から褒められた(?)のではなかったでしたっけね? 全村避難を強いられている村に空き巣に入るなんて、ちょっと信じられない思いですが、実際、いっぱいあるようです。他府県ナンバーでうろうろしているクルマが不審尋問にあうのは、そりゃ、しょうがない(^_^;) 自警団ばかりではなく、警察にも何度が呼び止められました(笑) それが、みんな他府県。三重県警、愛媛県警、高知県警……西の方が多いのかしら? 警視庁のパトカーも見かけたような気がしますが。高知県警の若い警察官の方とちょっとお話しました。2週間交代で、どうも独身の若い警察官が動員されている模様です。
飯舘村が全村避難になった経緯は、「この本を読むとわかりやすいよ」と貸してもらったのが飯舘村の酪農家、長谷川健一氏が著した「原発に『ふるさと』を奪われて」(宝島社)でした。風向きによって放射性物質の拡散範囲が同心円ではないということを示した「スピーディ」という機器の存在が知らされたとき、「なんで、とっとと逃げないんだ?」と思ったものですが、なるほど、その辺の経緯がよくわかります。同時に、数値も含めて「公式発表」は、やっぱり眉につばをつけたくなる……という感じです。
南相馬市へ
まもなく東日本大震災から1年を迎えます。今回、私を福島に連れて行ってくれたカメラマンさんは、昨年の5月からずっと、1か月に1回のペースで福島・宮城に行き、主として福島の放射線量を測定しながら変化を記録し続けていた人です。今回も南相馬から飯舘村、川内村を中心に、仙台の南側まで、線量計で数値を測定しながらの旅になりました。
沿岸部に行くと、いまだにまるっきり何もない風景が広がっています。いまだにというのはちょっと変ですね。津波で完全に破壊された家々の残骸は片付けられていて、広大な土地に家の土台だけが残っています。直後はまるっきり何もないわけではなく、やっと「何もない」状態にまで片づいたということでしょう。もう少し「片づけ」が進んでいるところでは、本当にただただ土地が広がっていましたが、南相馬から北上した沿岸部は、土台がまだ残っている状態でした。
瓦礫が片づけられた分、1年たったのだということです。1年という時間で、この状態は遅いとも思われますが、一方で実際にクルマで走ってみると地図上のほんの一角、この津波に洗われた範囲の広さを思うと、もっと、気の遠くなるほどの時間がかかるのではないかと感じられます。ちょっと高台に行くと、家はちゃんと建っているようにも見えますが、近くまで行けば1階部分はすっかり抜かれて、ビニールシートやベニヤ板が打ち付けられているだけなのがわかります。
海岸線から離れて、広野町へ行くと、ちょうど帰町のための説明会が行われていました。役場前の線量は0.18μSv/h(マイクロシーベルト/1時間当たり)でしたが、集会場の前では0.65μSv/hになっていました。ちょっとした位置や風向きで数字は違ってくるようです。集会場の上の広場には、除染した土が集められたビニールシートがずらっと並んでいます。これ、どうするんでしょうねぇ。まだ行き先が決まっていないにちがいありません。住民らしき方々は、あちこちからクルマでやってきて、マスクをつけたまま集会場に吸い込まれていきました
広野を後にして、葛尾、飯舘と、内陸部に向いました。このホットスポット地帯の話は改めて。夜はテレビでお馴染みの南相馬の立ち入り禁止ゲートの近くの安〜いビジネス旅館に泊まったのですが、なんと私以外は全員男性。ほとんど原発関係で働いている方々だそうです。「女の人が泊まるなんて聞いてない……。お風呂は、隙を見て鍵をかけて入って」と宿のおばちゃんに言われてしまいました。すごく迷惑そうで(笑) どうもすみませんm(_ _)m こういう出張人口がものすごく増えているそうです。
だるま市
今日は、深大寺のだるま市でした。このところ、毎年、行っているような気がします。今年は、土曜&日曜ということと、「ゲゲゲ……」で深大寺の名前が知れ渡ったことで、かなりの混雑。だるまを買うわけでもなく、知り合いの香具師の老ご夫妻とちょっとおしゃべりをしてきただけでした。友人の店が閉店してしまったこともあり、ひとりでは居場所もないということで……(笑)
だるま屋さんはたくさん出ていましたが、あまり活気はなかったのではないでしょうかね。だるまが売れると三本締めが聞こえてくるはずなのですが、1回しか聞かなかった……。滞在時間が短いということばかりではなく、道行く人も大きなだるまを買い込んでいる人の姿はほとんどなく、せいぜい手のひらサイズだったりします。景気が悪いったって、縁起物なんだから、みなさん、もっと張り込みましょう(笑)
といいながら、人ごみに貢献しただけの私は、明日から3日ほど東北に行ってきます。震災からずっと三陸と福島の写真を撮り続けてきたカメラマンさんに連れて行ってもらいます。被災者支援に何一つ貢献できなかったし、いまもできない私です。大震災から1年。その姿を自分の目で見てくるってだけの旅になりますが、それでもいいんじゃないかと思って、ついていくことにしました。
やっぱり……
やっぱり2年ぐらい前に閉店したようです。やっぱり、ご時世ですかね。十番あたりは観光名所みたいになってしまって、若い人向きのお店が増えたなぁという感じですが、飲食店は苦戦しているのかもしれません。そう値段も高くなく、落ち着きのあるオトナ向きの店の感じだったので、この店の閉店はちょっと残念。って、何年も足を運ばなかった人間が何をいうか!ですね(笑)
東京タワー
出かけて行ったのは、東京タワーです。みんな初めてではないのですが、「前に1回は来たと思う……」という程度で、案外、住んでいる人は訪れない東京の名所ではあります。私もnu-faceさんがタワースタジオのお隣ぐらいに引っ越したこともあり、根元まではときどき行くのですが、中に入るのは2回目。どうなっていたか……、忘却の彼方でした(^_^;) 灯台下暗しといいますか、そんなものです(笑)
展望台から見る風景は、上と下ではけっこう違うものですね。どっちが、どっち? 高速道路の道筋をたどって、やっとどっちを向いているかがわかりました。しかし、まあ、都心部というのは本当に建物が密集しているものですねぇ。上から見下ろすと改めて実感されます。地面が見えているのは、増上寺の将軍墓所ぐらいじゃないですか。やっぱり、こんなところで大地震が起きたら大変だろうなぁ〜(-_-;)
東京タワーから東麻布に抜けて、ものすごく久しぶりに魚冶さんでおいしいお鮨をいただきました。すっごく久しぶり。やっぱり回っているのとは、まったく別物ですね(^_^;) トコトコ歩いて十番でお茶をして、ちょっと買い物をして、おしゃべりが止まらず、ショットバーでビールだ、ワインだ(笑) 幼なじみというのは、垣根がないというのか、気楽で楽しいものでありますね。