あまりに広範囲で……
仙台市のはずれ、若林区あたりまで行ってみました。南三陸に知り合いがNPOで入っているので、そちらまで行ってみたいなとも思ったのですが、同じような荒涼とした津波の爪痕が果てしなく続く感じで、ちょっとめげて、もう一度、南相馬に戻りました。カメラマンさんがもっていたのは「復興支援地図」というものです。地図上には津波被害のあった場所に色が塗られ、通れない道路などが表示されています。実際に走ってみると、あの日から1年経って、道路はかなり復旧しているようです。
これまで、支援物資を運んだりするためにもこの地図は大いに役に立ったに違いありません。価格も1,000円弱で、なかなかのすぐれもの。4月頃にはもう発売されていたようで、「昭文社さん、やるじゃん!」という感じです。カメラマンさんが偶然、手に入れたのが5月。そのあと探し回った人がいたそうですが、すでに完売だったような。被害状況を示す資料にもなります。1年経って、どのくらい復旧が進んだのか、そろそろ改訂版がほしいところですね。
その地図上の1点に私たちはいるわけですが、その1点から見る風景は、限りなく何もない……。瓦礫を処理しているショベルカーは数えてみたら1ヵ所に20機が働いていました。その1台、1台がまるでアリンコのように見えるほど、何もない地面が広がっています。復旧、復興の速度が遅いという苛立ちの声をよく耳にしますが、この広さじゃ、そう一朝一夕には……と思わされます。地図上の1点でこれだけの「何もない」地面が広がっているのに、地図にはべったりと広範囲に色がついているのですから。もっと北のほうをみれば、岩手県に向って海岸線は広く色付きです。
14人の生徒が犠牲になった閖上(ゆりあげ)中学校、正面の時計が「その時間」を指したままとまっています。まだ引き取り手のない写真や品物が展示されている体育館に立ち寄りました。泥にまみれたランドセル、卒業証書や家族写真、ボランティアの人々の手で、できる限り整理されています。こんなにたくさんの物がまだここにのこされているということは、避難したまま帰ってこられない人の物もあるでしょうし、一家がみんな亡くなってしまったということもあるのかもしれません。泥だらけのランドセルに、思わず立ちすくんでしまいました。1年も前のできごとだったとは思えない……。
再び南下し、南相馬、浪江、飯舘のあたりを走っていると、どの道を行っても必ず「立入禁止」の看板に出会います。ここらがプラントから約20キロの地点ということです。ところどころに迂回路や通行止め道路の位置を示す看板なども見かけました。けっこう狭い道をくねくねと登って行った先には三重県警。近くにクルマが寄ってきただけで警察官が飛び出してきて「ダメ、ダメ」の合図を送ってきます。中に入りたいと思って近づいたわけではないのですが、適当に曲がって、曲がって走っていると、すぐに「立入禁止」にぶつかってしまうのですから、いたしかたありません。最初の地図には載っていない通行止め……。
愛猫家!
長泥地区から国道を少し峠を上っていくと、クルマの中でも急に数値が上がる場所があります。谷からもろに風が吹きつけてくる場所だからだそうです。ここに谷に向って1軒の家が建っていました。もちろん、無人。そこに1台の乗用車が走ってきて、停まりました。中から出てきた女性が、何かをもって家の中へ。滑る、滑るの雪の中を何を運んでいるのだろうと思ったら、「猫のエサ」でした。
月に2、3回、東京からエサをやりに来るそうです。猫好きの方というのは、とんでもない情熱をもっている方が多いようですね。私は、とりわけ猫が嫌いでも好きでもありませんが、こういう情熱はなかなか理解しがたく、むしろ「クルマを1台、福島に置いてあって、来るのは新幹線で」と言う、その財力に恐れ入りました。金持ち! 私たちは、1度来るにも木賃宿に泊まり、コンビニでご飯を食べてる……(笑)
その愛猫家の女性が、ものすごく立派な線量計を持っていました。ガイガーカウンターなんて、立派な名前で呼んでもOKという感じで、研究者たちも使っているものだそうです。ナノグレイ毎時(nGy/h)という単位で計り、1 nGy/h (ナノグレイ毎時) = 0.0008 μSv/h (マイクロシーベルト毎時)ということです。いずれも放射線によって人体に与えられたエネルギー量(被曝量)」を表すものですが、次々に新しいカタカナ言葉が登場し、素人は混乱するばかり……。
この立派な線量計と我がおちびちゃんの簡易線量計で同じところを計ってみると、ほとんど同じ数値が得られました。ちょっと老けたおちびちゃんでも、立派に仕事をしていることがわかり、ひと安心(^_^;) おちびちゃんは100μSv/hまでしか計れないのですが、この立派なのはいくつまで計れるのでしょうか。側溝の脇の草地で、この機械のメーターが振り切りました。「見守り隊」の方は、「ところによっては、軽く300を超えてるんじゃない?」とフツーの口調でいいましたが、ここがそこかも……。誰でも通れる天下の大通り、国道脇ですよ! いやはや、驚きました。
飯舘村
除染が終わっているという津島中学校に立ち寄りました。校庭には、たくさんの黒い包みが山積みになっていました。これ、除染した土とか砂の袋ですね。集めてはみたものの、行き場がなくて、校庭を占領しているようです。そういえば、テレビの報道などでみたことがあるような。除染したのだったら、もう少し低い数字が出るかなと思って線量計を見ると、地上1メートルあたりで、5.68μSv/hという数値をしめしていました。
あちこちに立ち寄りながら、全村避難になっている飯舘村に到着しました。立ち入り禁止にはなっていません。いちばん線量が高いといわれている長泥地区にある公式計量ポストのそばで、幅はありますが0.43〜0.89μSv/h。「低いじゃん!」と思って、数メートル離れると急に2.16μSv/hを計測しました。えっ!? どうやら、公式計量器の近くは除染しているのだとか。意味がないような……。住民が、数値が高く出ることに腹を立てて、近くの土を勝手に掘り返して畑に捨てたという話もあるそうです。
この辺りは、数日前に降った雪がたっぷり残っていて、角の家の雨樋からは水が滴り落ちています。「ああいうところが一番高いから、試しに計ってごらん」と言われて、線量計をかざすと、92.95μSv/hありました。私が見た最高記録です。「うひゃ!」という感じ。放射性物質は目には見えませんが、風に乗って浮遊しているので、ちょっと場所を変えたり、同じ場所でも5分も立っているとどんどん数値が変わります。この振れ幅も大きくて、ときには「機器が壊れたか?」とまで思うほど。この日、使っていた線量計は、かなり年季は入っているように見えますが、数値はだいたいのところ正しく示すようです。屋根から水を集めて流れる樋の出口や、側溝などはやはり高い数字をたたき出します。
写真を撮ったり、線量計を振り回していると、不審尋問にあいました(-_-;) 怖い顔をして近寄ってきたのは「飯舘村見守り隊!」の方々。村民が避難して誰もいないのをいいことに、空き巣がたくさん発生しているという話は、テレビでも聞いていました。自衛団が結成された話も。それがこの方々だったのですね。こういうパトロール隊の方々は浪江町などでも随所で見かけました。そういうパトロールが必要なもともとの理由、ガラスが破られて空き巣にあったらしき家々もかなりたくさん見かけました。
日本人は、震災の混乱の中でも盗みもしなければ、暴動も起こさない、秩序を守って行動すると諸外国から褒められた(?)のではなかったでしたっけね? 全村避難を強いられている村に空き巣に入るなんて、ちょっと信じられない思いですが、実際、いっぱいあるようです。他府県ナンバーでうろうろしているクルマが不審尋問にあうのは、そりゃ、しょうがない(^_^;) 自警団ばかりではなく、警察にも何度が呼び止められました(笑) それが、みんな他府県。三重県警、愛媛県警、高知県警……西の方が多いのかしら? 警視庁のパトカーも見かけたような気がしますが。高知県警の若い警察官の方とちょっとお話しました。2週間交代で、どうも独身の若い警察官が動員されている模様です。
飯舘村が全村避難になった経緯は、「この本を読むとわかりやすいよ」と貸してもらったのが飯舘村の酪農家、長谷川健一氏が著した「原発に『ふるさと』を奪われて」(宝島社)でした。風向きによって放射性物質の拡散範囲が同心円ではないということを示した「スピーディ」という機器の存在が知らされたとき、「なんで、とっとと逃げないんだ?」と思ったものですが、なるほど、その辺の経緯がよくわかります。同時に、数値も含めて「公式発表」は、やっぱり眉につばをつけたくなる……という感じです。
南相馬市へ
まもなく東日本大震災から1年を迎えます。今回、私を福島に連れて行ってくれたカメラマンさんは、昨年の5月からずっと、1か月に1回のペースで福島・宮城に行き、主として福島の放射線量を測定しながら変化を記録し続けていた人です。今回も南相馬から飯舘村、川内村を中心に、仙台の南側まで、線量計で数値を測定しながらの旅になりました。
沿岸部に行くと、いまだにまるっきり何もない風景が広がっています。いまだにというのはちょっと変ですね。津波で完全に破壊された家々の残骸は片付けられていて、広大な土地に家の土台だけが残っています。直後はまるっきり何もないわけではなく、やっと「何もない」状態にまで片づいたということでしょう。もう少し「片づけ」が進んでいるところでは、本当にただただ土地が広がっていましたが、南相馬から北上した沿岸部は、土台がまだ残っている状態でした。
瓦礫が片づけられた分、1年たったのだということです。1年という時間で、この状態は遅いとも思われますが、一方で実際にクルマで走ってみると地図上のほんの一角、この津波に洗われた範囲の広さを思うと、もっと、気の遠くなるほどの時間がかかるのではないかと感じられます。ちょっと高台に行くと、家はちゃんと建っているようにも見えますが、近くまで行けば1階部分はすっかり抜かれて、ビニールシートやベニヤ板が打ち付けられているだけなのがわかります。
海岸線から離れて、広野町へ行くと、ちょうど帰町のための説明会が行われていました。役場前の線量は0.18μSv/h(マイクロシーベルト/1時間当たり)でしたが、集会場の前では0.65μSv/hになっていました。ちょっとした位置や風向きで数字は違ってくるようです。集会場の上の広場には、除染した土が集められたビニールシートがずらっと並んでいます。これ、どうするんでしょうねぇ。まだ行き先が決まっていないにちがいありません。住民らしき方々は、あちこちからクルマでやってきて、マスクをつけたまま集会場に吸い込まれていきました
広野を後にして、葛尾、飯舘と、内陸部に向いました。このホットスポット地帯の話は改めて。夜はテレビでお馴染みの南相馬の立ち入り禁止ゲートの近くの安〜いビジネス旅館に泊まったのですが、なんと私以外は全員男性。ほとんど原発関係で働いている方々だそうです。「女の人が泊まるなんて聞いてない……。お風呂は、隙を見て鍵をかけて入って」と宿のおばちゃんに言われてしまいました。すごく迷惑そうで(笑) どうもすみませんm(_ _)m こういう出張人口がものすごく増えているそうです。
だるま市
今日は、深大寺のだるま市でした。このところ、毎年、行っているような気がします。今年は、土曜&日曜ということと、「ゲゲゲ……」で深大寺の名前が知れ渡ったことで、かなりの混雑。だるまを買うわけでもなく、知り合いの香具師の老ご夫妻とちょっとおしゃべりをしてきただけでした。友人の店が閉店してしまったこともあり、ひとりでは居場所もないということで……(笑)
だるま屋さんはたくさん出ていましたが、あまり活気はなかったのではないでしょうかね。だるまが売れると三本締めが聞こえてくるはずなのですが、1回しか聞かなかった……。滞在時間が短いということばかりではなく、道行く人も大きなだるまを買い込んでいる人の姿はほとんどなく、せいぜい手のひらサイズだったりします。景気が悪いったって、縁起物なんだから、みなさん、もっと張り込みましょう(笑)
といいながら、人ごみに貢献しただけの私は、明日から3日ほど東北に行ってきます。震災からずっと三陸と福島の写真を撮り続けてきたカメラマンさんに連れて行ってもらいます。被災者支援に何一つ貢献できなかったし、いまもできない私です。大震災から1年。その姿を自分の目で見てくるってだけの旅になりますが、それでもいいんじゃないかと思って、ついていくことにしました。