ある小説の中に、世界を旅して「何を祀ってあるのかわからないんだけど、地元の人が拝んでいるものには手を合わせることににました。そうしたら、なぜか商売がうまくいくようになったんですよ」というフレーズがありました。SFだし、本筋とはまったく関係ないんだけど、心に残った一節です。そんなわけで(どんなわけで?)、日々の何気ないできごとを綴ってみようかと思います。
2007/11/21  (水) 

遠妙寺(甲斐霊場第39番)

遠妙寺に行くにもちょっと苦労をしました。この辺、というあたりでタクシーの営業所をみつけ、ラッキー! タクシーの運転手さんなら知らないわけはありません。どーんと営業所の前にクルマを停めて、休憩中の運転手さんに襲いかかりました(笑)。やっぱり、近隣の名所、観光地などはよくご存知で、丁寧に信号の数まで教えてくれ、地図を描いていただきました。これで、ばっちり。
 
近くまで行くと、道路からはちょっと見えにくいのですが、大きな山門がありました。これをくぐると正面に仁王門があり、本堂と続いていきます。仁王門は18世紀に再建されたものだそうですが、中の木製の仁王像は左右とも像高180センチぐらいあり、威風堂々としています。総じて、日蓮宗のお寺は門が立派なのだそうです。何か、教えと関係があるのでしょうか? そのうち調べてみましょう……、って、「そのうち」というのは、まずめったに来ないんですよね(^_^;)
  
大黒さんが御朱印を書いてくださったのですが、御朱印帳をみて、「まあ、判だけなのが多いのね。残念ね……」と悲しそうにおっしゃいました。私も残念です(笑)
 
境内には石和温泉七福神の大黒様がいらっしゃいます。大きい! 奥には鵜飼翁の供養塔、鵜飼勘作のお墓があります。歌舞伎や能などは江戸時代に庶民の娯楽として発展したものですが、その代表的な演目に「日蓮もの」と呼ばれるものがあるそうです。そう、あの日蓮宗の日蓮上人が主人公です。全国各地を行脚しながら布教した日蓮上人の法難や数々の奇跡、伝説などを脚色したものです。なかでも「鵜飼漁翁の亡霊済度」の物語は人気が高かったそうで、世阿弥による謡曲「鵜飼」が有名です。
  
この物語は、日蓮上人が石和川(笛吹川)に訪れ、鵜飼いの翁の亡霊に出会ったというものです。日蓮は三日三夜にわたり、法華経の経文6万9,384字を河原の石一つに墨で一文字ずつ書いて川底に沈め、この川施餓鬼によって鵜飼翁が成仏することができたというストーリーです。 
 
日蓮上人はこの川のほとりに塚をつくり、その後、日養が鵜飼堂を建て、さらに日梵が堂宇を建立しました。これが石和山鵜飼寺、現在の遠妙寺なのだそうです。川施餓鬼の根本道場であり、毎年9月16日には施餓鬼法要が行われます。また「鵜飼」にちなんでお寺と町の開催で薪能も行われるそうです。



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2007/11/20  (火) 

慈眼寺(甲斐霊場第38番)

慈眼寺は矢印が曲がっていたために一回りはしたものの、比較的わかりやすいところにありました。周りは桃や葡萄の畑で大きな建物がないので、こんもりとした木のかたまりのあたりがお寺かなと見当がつけやすかったからかもしれません。
 
入り口には古めかしい鐘楼門が立っています。小さめですが、さまざまな装飾が施されています。鐘楼門ぐらいで驚いてはいけないという感じで、奥の本堂はどっしりとして威厳があり、右手の庫裏は茅葺屋根です。庫裏と本堂の一部は1997(平成9)年に大修理を行ったそうで、庫裏の前にはつるべ式の井戸も復元されていました。実用としては使われていないもようですが。
 
鐘楼門、本堂、庫裏とも17世紀半ば、江戸初期の建築物で、いずれも入母屋造りと呼ばれる建築技法です。国指定の重要文化財に指定されているとのことでした。 慈眼寺の発祥はよくわかっていないそうですが、15世紀後半の文明年間に中興され、武田の祈願所として発展したものの、16世紀後半に織田勢に焼かれ、17世紀半ばになっていまの建物が建てられたそうです。
 
庭には四季折々の花が植えられ、東屋で休憩もできるので、葡萄狩りや桃の収穫に訪れた観光客もときおり訪れているとのこと。いまは桃も葡萄もありませんが、境内には大きな柚子が実をつけていました。ほんのりした香りに誘われて、御朱印をいただいた大黒さんに、図々しくも「分けていただけませんか?」とお願いしてみました。
 
「ご近所の方が楽しみにしていらっしゃるので、たくさんはだめですが……」」とおっしゃって、それでも五つももいでくださいました。代金を支払いと申し出たのですが、受け取っていただけず、新鮮な柚子をいただきっぱなし。ありがとうございます。柚子の隣には柿がたわわに実をつけていて、これは干し柿になるものだそうです。そういえば、お庭にむいた柿の皮も積まれていました。甲州はどんな季節もフルーツの里なんですね。



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2007/11/19  (月) 

国分寺(甲斐霊場第37番)

国分寺というからには、きっと大きいお寺だろうと予想していました。で、教えられたところに行っても見つかりません。近くをぐるぐる回って、道行く人にも教えていただき、その通りに行ったはずなのに……。そこで見つけたものはだだっぴろい草地と一本の木、そして「史跡甲斐国分寺跡」の立て看板だったのでした。あら〜、国分寺はなくなっていたのですね〜。
 
国分寺と国分尼寺は8世紀前半に諸国に建てられた官寺です。68ヵ所に建てられたそうですが、いまは一つも残っていないのだそうですね。そうと知っていればはじめから「跡」を探したものを……。不勉強だと、こんなところでも迷子になるのです(-_-;) そういえば東京にも国分寺市がありますが、お寺があるという話は聞いたことがありませんね。そうだったのかぁ〜。
 
立て看板の道路の向かいが国分寺のあった跡で、現在はブルーシートで養生されています。かつて伽藍のあったところの礎石のようです。史跡公園にする計画があるとか、ないとか。墓石なども一ヵ所に集められていますが、作業が進んでいるという気配はありません。
 
さらに奥には、五重塔が立っていたという礎石が残っています。さすがに国分寺の五重塔は大きかったとみえて、礎石も大きなものです。直径2.8メートルの礎石を中心に13個の礎石が方形に並んでいるのが見てとれます。高さ50メートルの塔がそびえ立っていたそうです。 この境内と周辺は国の史跡に指定されていました。セットの国分尼寺跡は500メートルほど北にあるそうですが、行ってみませんでした。だって、こっちも「跡」だけですものね。
  



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2007/11/18  (日) 

超願寺(甲斐霊場第36番)

超願寺へ行くにも、やっぱりウロウロ。ちょうど駐在所があったので、食事中らしかったおまわりさんを呼び出し、大きな地図で見てもらいました。しかし、曲がり角に目印になるようなものがないので、教えるほうも聞くほうも難儀です。「この道を右へ行って、確か牛乳の看板が……、明治牛乳の看板があると思ったな、そこを左」と教わって走っていくと、「武田牛乳」の看板が。ん? ここかな? 明治じゃないけど、とりあえず曲がってみるか……、そのあとは迷路でした(-_-;)
 
郵便局の前に出たので、中に入って道を聞くと、ちょうどその近所に住んでいるというお客さんが来ていて、「ついていらっしゃい」と言ってくれました。甲州は道は難しいけど、親切な方が多くて助かります。結局、来た道を戻った感じで、角に「明治牛乳」の看板がありました。おまわりさんの言いつけに従わなかった私が悪うございましたm(_ _)m

超願寺は桃畑の真ん中にある感じです。もちろん、いまは枯れ木という感じですが、春にはきっとピンクの雲の中にうずもれるようになるのでは? 夏になると桃の甘い香りが漂いそうです。クルマは裏口から失礼する感じですが、徒歩であれば桃畑の横にある山門から境内へ入っていくことになります。緑の庭木の中に南天の赤い実がひときわ鮮やかな色を放っていました。
 
親鸞が開いた浄土真宗は、数えて八世の蓮如の時代に日本各地へ布教に歩きました。甲斐には1447(文安4)年に訪れ、もともと天台宗の寺院だった昌願寺を浄土真宗の超願寺に改めのだそうです。 公開はされていませんが、超願寺には日本にただ一つといわれる、矢文が残されています。

  
織田信長が大阪石山本願寺を目の敵にしていたのはよく取り上げられる話ですが、超願寺の住職も呼びかけに応えて、石山本願寺の篭城に加わったのだそうです。攻めあぐねた信長が和睦を申し入れ休戦となりましたが、和睦に反対した本願寺の門主の嫡男だった教如は「信長を信じてはいない。各国の門徒は命を惜しまず、本山の再興に協力してほしい」と記した文を矢につけ四方に放ったとか。この矢文を直接、手渡された超願寺の住職が甲斐に帰って門信徒たちに披露したものが残されている矢文だそうです。なんだか、すごい歴史スペクタクルがこの地にあったという感じですよね。
 
いまはとても静かで、ゆったりとした時間が流れています。御朱印をいただいた坊守さんがとても優しい方なので、甘えて、境内でお弁当をつかわしていただきました。



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2007/11/17  (土) 

広厳院(甲斐霊場第35番)

妙亀山広厳院は、ひっそりとした山裾にありますが、このあたりはかつて甲斐四郡(山梨、八代、都留、巨摩)の真ん中で、中山と呼ばれ栄えたところです。いまでも地元では「広厳院」より「中山」という名前のほうが通りがいいとか。山号の妙亀は池に霊亀がいるという伝説があったからだそうです。
 
いまでは、またしても、「うわぁ〜、通れるのかな?」という道の奥にあります。入り口石垣のようなもので道幅規制をしている感じで、車幅感覚を問われますねぇ。ゆっくり、いっぱいいっぱいで入っていけば、広々とした境内が開けました。敷地内に大きな幼稚園もあります。御朱印をいただくために庫裏を訪ねると、年配の女性が対応してくださり、本堂もわざわざ開けてくださいました。住職のお母さまだそうです。
 
本堂の建物はとりとめのない感じなのですが、中は広々としています。それもそのはず、かつては甲府市の大泉寺(第59番)とともに甲斐曹洞宗830寺をまとめるお寺で、80人以上の僧が修行していたのだそうです。敷地が2万6千坪、境内の周囲が1里24町(約4.9キロ)あったとか。また、石和町中川から広厳院までの参道は、中山街道と呼ばれているくらいだったそうな。
 
それほど大きなお寺も、いまは時代に取り残された感じのたたずまい。お母さまいわく「息子は幼稚園のほうばかり一生懸命で……。お寺のほうはどうもねぇ」。最近、太鼓は修理したそうですが、この大きな本堂を維持していくのはなかなか大変なようです。
 
見上げると本道の天井近くの梁に、江戸時代の駕籠が4台も下げられています。高い所にあるので、細かいところは見えませんが、貴重なものなのではないでしょうか。ただただ吊り下げられているのはもったいない感じ。梵鐘は、県の文化財に指定されているそうです。こういうお寺の維持管理、なんとかならないものかなぁと思います。幼稚園児の声がときどき響く以外は、妙に静かなお寺でありました。



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川中島古戦場跡
瑜伽寺(甲斐霊場第43番)